6年前の3月14日は何をしていたか、今でもはっきりと覚えている。大きな揺れと巨大津波が襲った3月11日は金曜日。当時、取材拠点にしていた仙台市役所は月曜日の14日、混乱が続く中で窓口業務を始めた。
 市地下鉄南北線は一部区間で運行を再開。市内の保育所も一部で受け入れを始めたことを、一般記事や生活関連情報として夕刊に掲載した。大惨事からわずか3日。しかも、余震続きで誰も満足な食事や睡眠を取っていない。意地と底力を感じていた。
 これらのニュースや情報は本来、大きく扱われてしかるべきだが、小さなスペースを埋めただけにすぎなかった。夕刊の1面は、東京電力福島第1原発3号機が水素爆発を起こしたことを伝えている。不覚にも、当時は手元に届いたその紙面を見て、さほど危機感を抱かなかった。
 見出しには「東電『格納容器は健全』」とあり、「官房長官は『放射性物質が大量に飛び散っている可能性は低い』と述べた」と報じた。それが事実かどうかは今、はっきりしている。対応がどれだけずさんだったか。記憶から消してはならない事例の一つだ。
(報道部次長 末永秀明)