三味線の音に合わせて語られる浄瑠璃がある。それは長らく日本人の精神を形作ってきた。別の言い方をするなら、息づく風景を今も彩る。例えば歌舞伎でも「常磐津(ときわず)」節などがあり、身を任せていると心が揺さぶられる▼水俣病患者やその家族の思いをすくい取った『苦海浄土(くがいじょうど)』を、著者の石牟礼道子さんは「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である」(あとがき)と書いた。不朽の名著はノンフィクションでもない、小説でもない、古来よりある「調べ」として生まれた▼作品は高度成長の階段を駆け上がる戦後日本の影を描いた。娘の最期を語る母の言葉である。<おとろしか。(中略)ギリギリ舞うとですばい。寝台の上で。手と足で天ばつかんで。(中略)これが自分が産んだ娘じゃろかと思うようになりました。犬か猫の死に際のごたった>▼きのう、石牟礼さんが亡くなった。90歳だった。故郷熊本の自然や風土に注がれたまなざしは、東日本大震災や福島原発事故による「喪失」を体験した者の心にも迫る。文明の病に対峙(たいじ)し命の重みを追求する調べは、決して終わらせてはいけない▼理不尽な合理性と闘いながら古里を守っていけば、やがて浄土は見える。石牟礼さんの「遺志」を受け継ぐ。(2018.2.11)