東日本大震災から5年。自ら見聞きしたことを書こうと思ってきた。書いておかなければという思いと、言葉にしきれないもどかしさを感じた。非常時に何が伝えられただろうか。日常から何を伝えていればよかったのだろうか。合意形成はどう進めるか。全てに言葉が必要であると実感した。

 2月29日から3月2日まで、朝刊1面に「2011 あの時政治は」が連載された。これまで報道されてきた内容ながら、あらためて一連の流れを振り返ることができる記事である。あの時は被災地からの発信は困難な状況であった。被災地と報道される政治の世界の乖離(かいり)を感じた人は多かったのではないかと思う。政治はそれぞれがそれぞれの立場で発言するところから始まる。その前提が成り立っていなかったとも言える。せめて今、非常時にあれほどの乖離が起こらないための日常の発信は可能であろうか。問題提起の記事と受け止めた。
 3月9日の特集「世界の災害」は、この紙面にこれだけの情報を図示したことを評価したい。しかし、「自然の驚異 備え万全か」の見出しの下、天災が脅威であると書かれ、記憶の風化が指摘されているが、具体的備えについては読者に委ねられてしまっている。また、解説図の時間スケールがそれぞれに異なっており、災害の頻度が伝えきれていない。さらに、損実リスク予測は金額で表されているが、災害規模と災害頻度に加え、その国の経済状況や災害対策も考慮しての数値のはずだが、解説文にそのような補足がない。結果として、「備え」の必要性が伝えられていない。
 「津波訴訟」に関連したフォーラムが3月5日に開かれた。朝刊社会面の3日に前触れ記事「命守る防災体制を」、6日に内容を伝える「防災意識に想定外なし」が載った。訴訟での解決が難しいテーマである。遺族の「子どもたちは教訓になるために生まれてきたのではないが…未来の子どもの命を守ろうという言葉しか出てこない」という言葉が重い。
 2月29日の朝刊1面に戻るが、「鎮魂の地 新しい街に」の見出しで、いわき市薄磯を歩いた記事がある。福島県沿岸部は原発事故関連の報道が多く、津波被害が取り上げられることは少ない印象がある。だが、記事にあるように、薄磯地区はいわき市内で最大の津波犠牲者があった。「この地域には津波は来ない」との考えが避難を妨げたと聞いている。そのことへの反省や悔恨を抱えつつ、新しい街では、科学的な知識を持って防災教育や街づくりに取り組みたいという声も聞いた。大きな爪痕と悔恨の念に向き合い、大きく街をつくり変える過程を引き続き取材し、記事にしてほしい。

 5年前の3月12日の朝9時ごろに、避難所に河北新報が届いたと記憶する。皆で回し読んだ。前夜ラジオで聞いた、起きてしまった厳しい現実がそこにあった。「備えられたのではないか」との被災地からの切実な思いと具体的な提言を、言葉にして届けてほしい。