読者のみなさんはこの数週間、「東日本大震災7年」のカットが付けられた本紙記事をたくさんご覧になったと思う。そのうち、二つの連載に着目したい。
 一つ目は「再生への仙山連携 3.11後方支援の教訓」(2月27日~3月5日、朝刊1面・ワイド東北面で7回)。東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城に対して、山形が発生直後から行った迅速で幅広い支援について紹介した。次のような内容である。
 (1)「交通・輸送」 仙台空港に代わり、山形空港が救援機やさまざまな人的支援の拠点となった。
 (2)「医療」 山形県内の複数の災害派遣医療チーム(DMAT)が宮城県内に入って医療支援。
 (3)「支援物資」 山形県の各町内、商店街、自治体、金融機関が多様な物資面の支援を行った。
 (4)「避難」 山形のホテルや施設が高齢の避難者らを長期にわたって受け入れた。
 (5)「廃棄物」 腐敗した水産加工品、仮設トイレにたまったし尿、医療廃棄物などを丁寧に処理。
 (6)「火葬」 遺体を受け入れて火葬し、葬儀も行った。
 (7)「拠点」 山形県内に支援物資保管の拠点が設けられ、給水車などのベースキャンプになった。
 「全国、世界からの支援」に目が行きがちな中、隣県の献身に気付かせてくれた連載である。

 二つ目は「内陸被害は今」(3月6~10日、朝刊ワイド東北面で5回)である。東日本大震災で被害があったのは津波で被災した沿岸部だけではない。こちらは、内陸部の被災と7年間の経過に焦点を当てている。
 (1)「一関市」 2011年4月7日の余震で大きな被害を受けてもなお続けた沿岸部への支援。
 (2)「宮城県涌谷町」 建物被害が多く、中心商店街の衰退が加速した。
 (3)「仙台・松森陣ケ原」 内陸被災地で唯一防災集団移転。
 (4)「宮城県村田町」 「蔵の町並み」を形成する土蔵が被害に遭い、今も40棟近く傷ついたまま。
 (5)「須賀川市」 藤沼ダム決壊により犠牲者が出た。その後、伝承や慰霊に取り組んでいる。

 筆者は災害・防災に関わっているにもかかわらず、これらの事実・実態の多くを知らなかった。自身の勉強不足は否めないが、東日本大震災が広大な空間の中で、非常に多くの側面を持った災害だったことの表れでもある。加えて7年の時間がたち、この震災に関するさまざまな事象のボリュームは、さらに膨大になっている。
 よく「東日本大震災から○年」という言葉を見聞きする。しかし、東日本大震災という出来事は、起きた被害だけではなく、これからも続く対応過程を含んでいる。従って「から○年」は誤った表現である。本紙の「東日本大震災7年」は、そういった細かい配慮がなされたカットでもある。
 私たちは東日本大震災の多くを知らない。これから10年、20年と年を経ても、本紙が「東日本大震災を知り、学ぶ」地域教材としての新聞であり続けることを願う。