東日本大震災で津波被害を免れた石巻赤十字病院(宮城県石巻市蛇田)が発生当初、ほとんどの医療機関が診療不能に陥った石巻地域の医療を支えた。患者らが続々と詰めかける混乱の中、スタッフは数々の死と向き合った。不足する水と食料、広がる感染症。地域医療の最後のとりでとなった病院で、スタッフは全国から集まった応援部隊とともに、衛生状態が悪化した避難所の環境改善にも駆け回った。(肘井大祐)

◎死闘、石巻赤十字病院(上)

<予感>
 「市街地はほとんど水に漬かった。救急車は流されて2台しかない」
 2011年3月11日夜。石巻赤十字病院に、けが人を搬送した地元の救急隊から報告が入った。看護師萩原浩子さん(46)は「石巻で救出された人を搬送できる病院はここしかない。かなりの人が運ばれてくる」と直感した。
 予感は的中した。自衛隊などの救出が本格的に始まった12日昼ごろから、ヘリコプターや特殊車両が数分おきに市内外の被災者を運び込んだ。
 搬送された人の多くはずぶぬれでふるえ、話もできない状態だった。「恐怖からか、ほとんどの人がぼうぜんとしていた」と萩原さん。
 病院は正面玄関の外側に、治療の優先度を判断するトリアージのスペースと軽傷者を治療する大型テントを設けた。萩原さんは他の医師や看護師ら10人とトリアージに当たった。
 玄関付近には絶え間なく運ばれてくる患者、津波で失った薬をもらいに来る人、親族らの安否確認に来る人たちが殺到した。トリアージの最中にも「どうやって帰ればいいのか」「薬をもらうのにいつまで待たせるんだ」などと次々聞かれ、応対に追われた。
 途絶えることのない人波の中で、既に亡くなった孫を毛布にくるんで抱き、走って病院に駆けつけたお年寄りの姿が萩原さんの目に留まった。「これは現実なのか」。自らに問うた。

<騒然>
 院内も、騒然としていた。通常は待合室となる1階ロビーで、中等症の患者の処置が行われた。
 「映画で見た戦場の救護所みたいだった」。1日で700人が搬送された14日、透析治療のため病院を訪れた安田まゆみさん(47)は、当時の院内の様子をこう話す。
 ロビーは担架やストレッチャーが忙しく行き来していた。患者らでごった返し、スタッフは汗だくで走り回っていた。2階の廊下も、病院に避難した人が横になるなどして、埋まっていた。ロビーに運ばれた患者は、けがや低体温症で歩けない。病院が用意した80台の災害用ベッドでは足りず、入院患者用のマットや外来診察で使うベッドなどに患者が寝ていた。

<無念>
 「何かを考えるゆとりは全くなかった」。中等症患者の治療を担当した看護師城戸口和美さん(47)は、津波にのまれた人の着替えや応急処置の介助に追われた。
 急に高熱を出すお年寄りもいた。付き添う家族はなく、身元も分からないまま、院内で息を引き取った人は少なくない。
 城戸口さんが言う。「何とかしてあげたかった。でも、何もしてあげられなかった。むなしかった。悔しかった」
 本震後1週間で石巻赤十字病院で治療を受けた患者は計4186人。このうち79人の死亡を病院で確認した。=2011年6月16日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。