東日本大震災で津波被害を免れた石巻赤十字病院(宮城県石巻市蛇田)が発生当初、ほとんどの医療機関が診療不能に陥った石巻地域の医療を支えた。患者らが続々と詰めかける混乱の中、スタッフは数々の死と向き合った。不足する水と食料、広がる感染症。地域医療の最後のとりでとなった病院で、スタッフは全国から集まった応援部隊とともに、衛生状態が悪化した避難所の環境改善にも駆け回った。(肘井大祐)

◎死闘、石巻赤十字病院(下)

 石巻赤十字病院で受け入れた急患は本震から1週間がたった後も連日、300人前後に上った。震災前の1日平均(約60人)の5倍に達する。原因は、避難所の環境と食料、物資の不足だった。
 当初、約200人が避難した石巻市渡波町の渡波公民館では本震から1週間、高熱を出す避難者が相次いだ。沢水を沸かして飲み、周りでくんだ井戸水を手洗いに使っていた。マスクや消毒薬はない。
 避難者が体調を崩すたびに、約200メートル離れた消防署に職員が走って救急車を呼び、赤十字病院に搬送した。
 副館長大壁裕さん(57)は「当時は食料や飲み水の確保に必死で、十分な衛生管理をする余裕がなかった。避難所ではとても、病人に対応できなかった」と証言する。
 病院に搬送される患者の多くは、肺炎や胃腸炎などの感染症や脱水症状だった。
 「避難した人たちの生活環境が悪い。患者が減らない理由はそれ以外に考えられない」
 病院の災害対策本部ゼネラルマネジャーを務める医師石井正さん(48)はこう分析した。避難所の状況を知る手掛かりは市役所に張られた避難所と避難者数の一覧表だけ。石井さんは、避難所の環境や感染症発生の有無を調べることを決めた。
 巡回は主に、全国から派遣された医療チームが手掛けた。派遣元の医師会や大学など関係機関と連携し、石巻圏合同救護チームを組織。医師や看護師ら5、6人からなる20前後のチームで手分けして、3月17日から3日間で約300あった全ての避難所を調査した。
 救護チームを統括した長岡赤十字病院(新潟県長岡市)の集中治療部長江部克也さん(54)は「食料などの物資が全く足りない。避難者が次々と命を落としかねない」と危惧した。
 報告では、避難者に1日1個のおにぎりしか出せない避難所があった。衛生管理が行き届かず、感染症がまん延した可能性も高かった。
 「給水車の水はもったいなくて手洗いに使えない」「消毒用のアルコールはすぐになくなって使えない」。巡回に加わった石巻赤十字病院の看護師西條美恵さん(33)は訪問先の避難者からこんな声を聞いた。
 プールの水で手を洗ったり、着替えがなく泥だらけの服で寝たりしている人もいた。ほとんどの避難所で消毒薬がなく、感染症の患者を隔離するスペースも設けられていなかった。
 「行政の支援を待ってはいられない」。避難所に必要な物資を行き届かせ、生活環境を改善することがチームの当面の任務になった。現地での診療に加え、石井さんを中心に県や市、業者などと折衝に当たった。チームは赤十字病院が買った衛生用品や支援物資を避難所に配った。
 チームの働き掛けで、簡易水道や間仕切りなどが設置された避難所もある。渡波公民館には、マスクや消毒薬などが届くようになり、病院に搬送される避難者はほとんどいなくなった。
 本震から27日目の4月6日、石巻赤十字病院に搬送される急患は初めて100人を下回った。本震から60日目の5月9日に通常診療を再開。救護チームは今も、石巻市や東松島市の避難所や住宅など約100カ所を回って、被災者の健康管理に当たっている。

●物資途絶、底を突く食料/「水をください」…「ごめんね」しか言えず

 本震発生から1週間ほどがたち、搬送される患者が減り始める一方で、石巻赤十字病院には別の危機が迫っていた。
 院内で備蓄する食料が底を突きかけていた。
 災害用に備蓄していた入院患者400人分の食料は2011年3月13日までの3日分。14日以降、支援物資として届いたコメや缶詰などの食料は、入院患者や院内にとどまった患者に優先して提供した。
 透析治療に通院していた安田まゆみさん(47)によると、患者以外の避難住民が院内の廊下を埋める状態は震災後約1週間続いていた。水や食料は、そうした避難者の分まではなかった。
 病院食の献立作りを担当する管理栄養士佐伯千春さん(43)は、廊下に横たわっていたお年寄りから「水をください」と何度も請われた。「ごめんね」としか言えず、その場を後にすることの繰り返し。涙がこぼれた。
 病院に届く大口の物資は17日を境に、ぱたりと途絶えた。
 18日、入院患者に提供したメニューはこうだ。
 朝食=レトルト赤飯、ゆで卵。昼食=おにぎり、スパムソテー。夕食=焼きそば。
 入院患者の間から不満の声が上がり、院長ら病院幹部が事情を説明して回った。病院に泊まり込んだスタッフ約1000人には1食1個のおにぎりしか配れなかった。おにぎりは徐々に小さくなり、スタッフからは「ピンポン球みたいだ」との声が漏れた。
 佐伯さんのノートには「厳しい あと2日分」(17日)「院内=食材 非常に厳しい」(18日)と記されている。「どこにお願いしても、食料は届かない。途方に暮れた」と佐伯さん。自宅にあったわずかなコメや野菜を提供した職員もいた。
 報道機関を通して食料の提供を呼び掛け、地元の農家や業者から大量の野菜や果物、缶詰などが届いたのは、19日。翌日、患者向けの昼食に3日ぶりの副菜となるトマトサラダが提供された。=2011年6月16日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。