東日本大震災の津波で全校児童108人中、70人が死亡、4人が行方不明となり、児童を保護していた教職員10人が亡くなった宮城県石巻市大川小。戦後最悪の学校管理下の事故を巡る仙台高裁判決が今春にも言い渡される。あの時、大川小で何があったのか-。7年近くたつ今、当時の子どもたちや関係者が重い口を開き始めた。第1部は当事者の証言などから、学校にいた教職員11人中、唯一助かった当時教務主任の男性教諭(56)の「3.11」を追う。(大川小事故取材班)

◎教務主任の3.11

 昨年12月下旬、取材班は学校の南側にあるダルマツ山、通称・裏山に登った。教務主任が津波にのまれ、駆け上がったという斜面に取り付く。
 奇跡的に生き残った児童4人の1人、当時5年の只野哲也さん(18)=高校3年=が津波にのまれ、打ち上げられた場所に近い。児童34人の遺体がこの周辺で見つかった。
 何度か足を滑らせ、とげのある枝を避けつつ両手を使い急斜面を登る。1分ほどで高さ約10メートル、大川小の津波到達地点約8.7メートルを上回る場所に着いた。

 震災1カ月後の2011年4月9日、初めて遺族説明会が開かれた。教務主任は「山の方で木が倒れ…」と述べ、1~2分で行ける裏山に逃げなかった理由に倒木を挙げ、こう続けた。
 「山の斜面に着いたときに杉の木が2本倒れてきて、右腕と左の肩を挟まれ、その瞬間、波をかぶった」
 現在、裏山には杉の倒木が至る所にある。ほとんど津波や震災後の強風などで倒れたことが、市教委や第三者の事故検証委員会の調査で分かっている。
 地震の揺れによる倒木は1本もない。説明会の2カ月後、教務主任は校長に宛てたファクスで「錯覚だったかもしれない」と倒木発言を撤回した。
 「斜面の上で3年生の男の子が『助けて』と叫んでいた。『死んだ気で上に行け』と叫びながら、絶対、この子を助けなきゃと思って押し上げた。その子も水を飲んで全身ずぶぬれになった」(教務主任)
 津波にのまれ、眼鏡も靴もなくしたという教務主任は、児童を「目の代わり」にして山を登り、松の木を覆うビニールで暖を取っているうちに児童は寝てしまったと説明。その後、釜谷峠に通じる道で会った住民に助けを求めたという。

 斜面を登り始めて約15分、取材班は尾根に着いた。杉林を抜けた先の林道沿いに、透明なビニールで覆われた伐採木が約30カ所ある。はがして体に巻けば風よけになりそうだ。
 林道を約15分下ると、釜谷峠に通じる国道398号に出る。林道の出入り口にある千葉自動車整備工場の千葉正彦社長(63)は「先生と児童はぬれていなかった。ぬれていたら自宅には泊めていない」と話す。ぬれた人は事務所に案内し、着替えさせた上で夜通しストーブをたいて介抱したという。
 工場の敷地内にいた教務主任と児童に気付き、事務所に案内したのが、近所の三浦美春さん(36)=ミウラ自動車整備工場長=だ。
三浦さんは「児童の靴はどろどろだった。先生は靴とスーツの裾が汚れていたが、服装や髪形は乱れていなかった。寒そうにもしていなかった」と話す。

 震災後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症し、病気休職中の教務主任。遺族の前に自ら姿を現したのは、第1回遺族説明会が最初で最後となった。