マグニチュード(M)9.0の国内観測史上最大を記録した東日本大震災。巨大津波が河口から約3.7キロ離れた石巻市大川小を襲うまで約50分あった。児童74人と教職員10人の命が失われるまで何があったのか-。第2部は当時の児童や保護者らの証言を基に、3月11日午後2時46分の地震発生から3時10分ごろまでの初期対応を検証する。(大川小事故取材班)

◎14:46~15:10

 「“ありがとう”って伝えたくて あなたを見つめるけど」
 校舎2階の教室に大きな歌声が響く。両親に贈るため、4年生が人気バンド・いきものがかりの大ヒット曲「ありがとう」を録音していた。
 学校では「6年生を送る会」を終えたばかり。卒業式は1週間後。作品が廊下に展示され、学びやは旅立ちの春の空気に満ちあふれていた。
 各学年で授業が終わり、ちょうど帰りの会が終わるか、下校を始めた頃。5年生は「起立」の号令を掛け、「さようなら」を言う瞬間だった。
 「また地震だ」。9日に宮城県北部で震度5弱、10日も石巻市で震度4の地震があったばかり。ただ、すぐ別物だと分かった。

 大川小周辺の震度は6弱。経験したことのない長く巨大な揺れが、校舎全体を激しく揺らした。「机の下に入れ!」。6年担任の男性教諭=当時(37)=が叫ぶ。窓がサッシごと床にたたき付けられ、水槽がバシャバシャと波打つ。体が左右に振られる。
 「怖い」「お母さん」
 1階の1、2年教室から悲鳴が上がった。パニック状態になった子もいた。「大丈夫。しっかり、落ち着いて」。教職員は努めて冷静に話し掛けた。
 大川小の野球チーム「大川マリンズ」親の会の会長だった鈴木新一さん(55)は校舎2階で地震に遭った。当時6年の次男大雅さん(19)=大学1年=が体調を崩し、迎えに来ていた。
 鈴木さんと一緒にいた6年担任が血相を変え、受け持ちの教室に走る。「鈴木さんも身を低くして」。担任の気遣いに、鈴木さんは「地震直後、先生たちは児童を守ろうと立派に行動していた。先生に任せておけば大丈夫。正直、頼もしいと思った」と振り返る。
 約3分20秒間続いた揺れが収まるのを見計らい、男性教頭=当時(52)=が「校庭に避難してください」とハンドマイクで繰り返した。停電で校内放送は使えなかった。大川小は地震や火災などを想定し、年3回、避難訓練をしていた。「いつも通り逃げろ」と指示が飛んだ。

 1、2年生は1階教室の窓から直接校庭に出た。前の子の肩に手を載せて列を作り、3年生が歩いて昇降口を下りてきた。
 「会長さんだ」。こわばった顔が多い中、大川マリンズの3年の佐藤健太君=当時(9)=が鈴木さんを見つけ、声を掛けた。「大丈夫か?」「大丈夫だから」。気丈に振る舞う健太君との最後の会話になった。
 大雅さんは学校脇の道路に止めた車の後部座席で父を待っていた。「周りの木が倒れてきても大丈夫だから」と校庭に避難すると、既に1、2年生が集まっていた。
 3月9日の前震の際、児童の多くは防寒着を持たずに避難し、校庭で凍えていた。当時4年の女性(16)=高校2年=はいすに掛けていたジャンパーを手に早足で階段を下り、校庭に出た。
 全校児童108人のうち、欠席や早退を除く103人が当時、校内や学校付近にいたとされる。学校にいた教職員11人に付き添われ、子どもたちが続々と校庭に避難してきた。
 外は雪。午後2時50分の気温は1.6度。寒気が肌を刺す。

[大川小の津波事故]2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖で起きたマグニチュード(M)9.0の東北地方太平洋沖地震による津波で、石巻市大川小(児童108人)の児童70人が死亡し、4人が今も行方不明。学校にいた教職員11人のうち、男性教務主任を除く10人も犠牲となった。当時校長は休暇で不在。学校は北上川河口から約3.7キロ離れ、市の津波ハザードマップで浸水予想区域外だった。地震発生から約50分後に第1波が到達し、最高水位は高さ約8.7メートルに達した。学校管理下で戦後最悪の事故とされる。