マグニチュード(M)9.0の国内観測史上最大を記録した東日本大震災。巨大津波が河口から約3.7キロ離れた石巻市大川小を襲うまで約50分あった。児童74人と教職員10人の命が失われるまで何があったのか-。第2部は当時の児童や保護者らの証言を基に、3月11日午後2時46分の地震発生から3時10分ごろまでの初期対応を検証する。(大川小事故取材班)

◎14:46~15:10

 巨大地震の発生直後から、宮城県石巻市大川小の校庭には近くの住民が避難してきた。東日本大震災当時、学校は津波避難場所に指定されていた。
 「余震もすごいし、ここにいた方が安全かな」。息子を迎えに来た女性は、校庭にいた保護者とこんな会話をした。
 脳裏にあったのは、2011年2月22日に起きたニュージーランド南部の大地震。ビルや家屋が崩れ、日本人留学生28人を含む計185人が犠牲になった。3.11の17日前の出来事だ。
 女性は当時、周りで逃げようとする姿を見た覚えがない。「建物が倒れてくることしか頭になかった」。大川小前の県道でも多くの住民が自宅から出て話し込んでいた。
 学校がある釜谷地区で働いていた男性は「どこかよそ事のように思ったんだろう。過去に津波を経験していないからか」と推し量る。「すごい津波が来るらしい」と話す住民の表情にも緊迫感はなかったという。
 この頃、既に各地で異変が起きていた。
 「鳴瀬川河口、急に潮が引いている」。午後2時59分、石巻地区消防本部に隊員から情報が入った。鳴瀬川は大川小から約30キロ南西の石巻湾に注ぐ。
 大川小近くの北上川でも異変が起きていた。「今まで見たことないほど水が引いている」。石巻市北上町の佐藤秀子さん(64)は新北上大橋を車で走行中、「これは津波が来る」と直感した。子どもの頃から長年、北上川でシジミ採りをしてきた。普段の干潮時より50センチは低いだろうか。
 学校で当時1年の孫を引き取った佐藤さんは、6年担任の男性教諭=当時(37)=から「橋が危ないようなので気を付けて帰ってください」と言われ、校庭を後にした。
 佐藤さんは「孫の引き取りに精いっぱいで、次は保育所にいる孫も迎えに行かなきゃと気が急いていた。川の様子を伝える余裕がなかった」と悔やむ。
 当時の市河北総合支所職員及川利信さん(64)も北上川の異変に気付いていた。「当初予想された『6メートル』の津波なら堤防があるから大丈夫、と安易に考えてしまった」と話す。
 当時中学1年の男性(20)=大学2年=は、一緒に北上川を見ていた父親から「引き波は津波の兆候だ」と教えられた。映画「ディープインパクト」で見た光景がよみがえる。父親は「川を遡上(そじょう)する津波を息子に見せてあげようか」と考えていた。
 震災2日前の3月9日昼、三陸沖でマグニチュード7.3の地震があり、宮城県に津波注意報が発令された。「川の方も見てきますか」。男性教務主任(56)は当時、対応の指揮を執った校長柏葉照幸氏に提案し、北上川の様子を確認していた。
 1956(昭和31)年発行の大川村史が「我が村の死命を制する河(かわ)」と呼ぶ北上川。震災当日、その様子を確かめた教職員がいたとの証言はない。
 大川小は北上川河口から約3.7キロ離れているが、川との距離は約200メートルと近い。堤防の高さは約5.2メートル。当初予想された津波高6メートルより低い。
 目の前で起きていた異変に、教職員はまだ誰も気付いていない。