東日本大震災による津波で、児童74人と教職員10人が犠牲になった宮城県石巻市大川小。巨大津波の襲来が刻一刻と迫る中、教職員と児童は校庭にとどまり続けた。高台への避難をためらわせた「迷い」とは何だったのか-。第3部は当時の児童や保護者らの証言を基に、3月11日午後3時10分ごろから同25分ごろまでの状況を再現、検証する。(大川小事故取材班)

◎15:10~15:25

 石巻市大川小の校庭に立つ防災行政無線は3月11日午後2時52分と3時10分の2回、大津波警報の発令を告げたきり、沈黙した。
 「(午後3時)30分に津波が来るんだってよ」「あと20分しかないじゃん」。午後3時10分、児童を迎えに来た母親同士がこんな会話をした。
 災害対策本部を統率するはずの当時の校長柏葉照幸氏は不在。男性教頭=当時(52)=ら教職員11人が頼ったのは、式台に置いたラジオと保護者や住民がもたらす断片情報だった。
 教頭に次ぐ当日のナンバー2、男性教務主任(56)は走り回っていた。本来2人で担う校内の安全点検は女性用務員が外出中だったため一人で行った。児童の防寒着を取りに戻ったり、トイレに付き添ったりした。
 児童の引き渡しは6年担任の男性教諭=当時(37)=が担当した後、複数の教職員が関わった。各担任は児童の世話や保護者、地域住民の対応にも当たった。
 弟を迎えに来た当時大川中1年の佐藤優太さん(20)=大学2年=は「先生たちは大変そうだった。どうしたらいいか分からない、パニック状態だったのかもしれない」と振り返る。

 災害対応の指針となるのが、各学校が定めた危機管理マニュアルだ。市教委は震災前、校長らを集めた会議や研修会で、高い確率で予想された宮城県沖地震や2010年2月のチリ地震津波を踏まえ、マニュアルの整備と周知、訓練の実施を求めていた。
 大川小は07年度のマニュアル改定時、初めて「津波」の文言を盛り込んだ。校庭から次の避難場所は「近隣の空き地・公園等」とした。10年度の改定もこれを踏襲した。
 柏葉氏は震災後、校庭から次の避難先について「釜谷交流会館の駐車場、体育館裏の児童公園を考えた」と説明したが、マニュアルに具体的な避難場所の記載はなく、周知もされていなかった。震災当日、教職員が長く校庭にとどまり続けた理由の一つとされる。
 マニュアルの不備が明るみに出たのは、多大な犠牲が出た後だった。12年1月の第3回遺族説明会で、柏葉氏は「校長として至らなかった」、市教委学校教育課長だった山田元郎氏も「指導点検しなかった責任を重く感じる」と謝罪した。

 「裏の山は崩れるんですか」「子どもたちを登らせたいんだけど…。無理がありますか」
 マニュアルにない裏山への避難について、教頭が地元の高齢者数人に聞いて回る様子を40代の母親が覚えている。丁寧な口調が印象的だった。
 「しばらく校庭にいた方が安全です。道路も壊れるかもしれない」。児童を引き取りに来た別の母親を、6年担任の男性教諭が呼び止めた。母親は「ここにも津波が来るかもしれない。ラジオでも言ってる」と告げ、午後3時20分までに校庭を出た。
 帰り際、母親は4年担任の男性教諭=当時(27)=に「逃げた方がいいよ」と伝えた。見送る教諭の不安げな表情が忘れられない。
 教務主任は11年6月、遺族に宛てたファクスに「皆、夢中で動いていた」と記した。マニュアルにない次の避難先を模索するうち、時間だけが過ぎていった。