東日本大震災による津波で、児童74人と教職員10人が犠牲になった石巻市大川小。巨大津波の襲来が刻一刻と迫る中、教職員と児童は校庭にとどまり続けた。高台への避難をためらわせた「迷い」とは何だったのか-。第3部は当時の児童や保護者らの証言を基に、3月11日午後3時10分ごろから同25分ごろまでの状況を再現、検証する。(大川小事故取材班)

◎15:10~15:25

 白い波が北上川を遡上(そじょう)してきた。3月11日午後3時23分、石巻市北上町十三浜で目撃された津波の第1波だ。高さは30~40センチ。対岸の大川小の校庭から川の様子は見えない。
 同じ頃、市河北総合支所の広報車がバックで大川小前の県道に出た。誘導したのがスクールバスの運転手三浦勝敏さん=当時(63)=だ。支所職員は「どうも」とあいさつし、沿岸の長面(ながつら)、尾崎(おのさき)方面へ避難誘導に向かった。

 校庭では児童の引き渡しが散発的に続いていた。保護者の男性は、教職員が紙に「3時23分」と書いたのを覚えている。校庭での待機は既に30分を超えていた。
 当時5年の男性(18)=高校3年=は震災前、祖父から「大きい地震があったら山に逃げろ」と教えられていた。男性は「校庭に出た時には『山に逃げなきゃ』というのはすっかり頭から抜けていた」と話す。
 「大丈夫っしょ」「死にはしない」。児童たちは強がったり、励まし合ったり。待機が長引くにつれ、家のゲーム機やプラモデルが壊れていないか、明日遊べるかなど子どもらしい会話もした。男性は「それくらい危機感はなかった」と振り返る。
 一方、当時1年の男子児童は「怖い」と震えていた。校庭で友達同士で抱き合ったり、手をつないだりする姿もあった。
 震度1~3の余震は数分おきに起きた。約12キロ離れた観測点は午後2時46分~3時25分まで計18回の余震を記録した。地面が揺れるたび、児童から「おおー」と声が上がった。
 当時1年の女子児童が担任の女性教諭=当時(24)=に「山へ登るの」と尋ねた。「登れないんだよ。危ないから駄目なんだ」という答えが返ってきた。
 裏山は2003年3月末ごろ、斜面の一部が崩れ、03~04年度に崩落を防ぐ工事が実施された。震災3年前の08年6月には岩手・宮城内陸地震が発生。栗原市などで大規模な地滑りが起き、17人が死亡、6人が行方不明となった。
 大川小事故を巡る第三者検証委員会は、教職員が当時、津波よりも崖崩れの危険性に意識が向いていた可能性を指摘した。ただ、裏山で地震による倒木や土砂崩れは起きていない。

 6年担任の男性教諭=当時(37)=が、運んできたドラム缶に木をくべ、たき火の準備を始めた。午後3時20分の気温は0.9度。寒さ対策とみられる。
 校庭に最大十数人いたとされる住民は徐々に減り、学校の隣にある釜谷交流会館に移ったり、自宅の片付けに戻ったりした。
 03年完成の会館は平屋だが、1985年開校の大川小より新しい。敷地も周辺より1メートルほど高かったという。低地の釜谷は大雨でたびたび冠水したが、会館が浸水した記録はない。寝たきりの高齢者を連れて来る人もいた。
 沿岸部に向かっていた支所副参事だった山田英一さん(62)らの広報車1号車は、釜谷と長面の間にある釜谷霊園を過ぎた辺りに差し掛かった。
 約3キロ先に数万本もの松の林が広がる。追波湾に面した長面海水浴場沿いにある防風林で、「松原」と呼ばれていた。
 白い塊のようなものが松林を抜けてきた。間髪入れず高さ15~20メートルの松林の上に飛び散る水しぶきが見えた。
 「津波が来た」
 山田さんは急いで車をUターンさせた。