青天のへきれきだった。「えっ、横浜(現DeNA)にトレード?」。球界関係者からの電話でうわさ話を聞いた渡辺直の表情が突然、曇った。2010年12月6日深夜、仙台市内の飲食店で一緒に焼き肉の台を囲んでいた。
 翌年は大リーグから国内復帰する松井稼と正遊撃手を争う。4季定位置を守っていた30歳は鬼気迫る表情で対抗心をにじませたばかり。「開幕でショートを譲っても、一年が終わった時は『やっぱり直人だ』って思われるように頑張る」

<動揺の色見せず>
 翌朝、一部スポーツ新聞が移籍をスクープした。それでも本人は動揺の色を見せず、自主トレ先の千葉県へ。8日、彼から電話があった。9日に仙台市へとんぼ返りして球団幹部と面会するという。「覚悟はしています」の言葉とは裏腹に心細そうな声。たまらず「明日、そこで出てくるのを待っているよ」と返した。
 面会場所のホテルから出てきた本人は意外なほど穏やかだった。「松井が来て、君がベンチを温める姿を見たくない。求められた横浜でキャリアを積む考え方もある」。球団幹部の説得を前向きに受け止めようと必死だったのだろう。
 だが、時間を置かず臨んだ退団の記者会見でファンへの思いを問われると、もう涙をこらえ切れなかった。翌10日の契約更改会見では嶋、鉄平、草野も泣いて別れを惜しんだ。創設期の寄せ集め軍団から脱却し、生え抜きの若手が増えていた。渡辺直は若手の心のよりどころで、選手会長就任直後の嶋と並んでチームの未来を担う人材だと誰もが信じていた。

<後輩の指導担う>
 東日本大震災が起きた11年、彼は横浜の正二塁手になり、オールスター戦で仙台に帰ってきた。その敢闘賞の賞金100万円を仙台市に寄付。心は被災地とともにあったからだ。「最短で14年にフリーエージェント(FA)権が得られる。その時、楽天に手を挙げてもらえる選手でいたい」。だが、12年に定位置を失い、13年前半は2軍にいた。「出番がなく、選手として終わりかけていた」という7月、トレードで西武へ移った。
 「拾ってもらった恩義がある。自分から西武を出て行くようなまねはできない」。15年にFA権を得た時、考え方は変わっていた。年々、守備固めや代打に役割が限られていく中、秋山(八戸大出)ら後輩の指導を積極的に引き受けた。今季は世代交代があって、ほぼ2軍暮らし。10月に戦力外になった。
 あれから7年、渡辺直が帰ってくる。当時、球団は否定したものの、主力選手のポスティングシステムによる大リーグ移籍が失敗したチーム編成の余波を、彼が受けたのは自明だった。昭和の名作ドラマ「おしん」のような泣き別れにも、彼の口から一度も恨み言を聞いたことはなかった。
 それこそが、東北のファンに惜しまれ続けた彼の人間味だ。「チームの模範になる」と評価して、機を見て呼び戻した球団にも家族的な愛情を感じる。30日に入団会見がある。ファンに代わってただ一言、告げたい。
 「おかえり」
(金野正之、関俊哉)