隻眼(せきがん)のまなざしは仙台領のまっすぐ東、太平洋のかなたに注がれていた。
 1613年、領内で建造された500トンの洋式帆船サン・ファン・バウティスタ号が月浦(石巻市)から出航した。世界が大航海時代に沸き、西国大名は東シナ海での南蛮貿易にいそしむ頃。慶長年間、伊達政宗が外交を求めて選んだ針路は、胸がすくような一直線の太平洋横断だった。
 大使に720石取りの中堅家臣支倉常長を抜てき。船にはスペイン人宣教師、幕府関係者、商人ら約180人が乗り込んだ。使節はスペインの植民地であるメキシコとの直接貿易を実現し、宣教師の派遣を要請するため、メキシコ副王とスペイン国王、ローマ法王に宛てた政宗からの親書と贈り物を携えていた。
 3カ月かけて北米大陸のメンドシノ岬に到達後、メキシコ・アカプルコに入り、大西洋を渡って欧州へ。支倉は国王、法王と謁見(えっけん)し、マドリードで国王列席の下で受洗した。各地で厚遇を受け、ローマでは公民権を授与され貴族に列せられている。

 「賢明で思慮深い。話術に優れ謙虚だ」。スペイン・セビリアに残る文書に記された支倉の人物評は興味深い。主君の命を胸に、慣れない異国の地でも臆せず振る舞った誇り高き侍の姿が浮かび上がる。
 結果をいえば使節は20年、目的を果たせないまま失意の帰国を余儀なくされる。7年のうちに国内情勢は大きく変化した。幕府はキリシタン禁教に転換し、激しい弾圧が宣教師を通じて欧州に伝わっていた。支倉の懸命な努力とは裏腹に、もとから厳しい状況での交渉だったのだ。
 政宗は支倉の帰郷からほどなく、領内に禁教令を敷く。支倉は翌年に病没したと伝わる。以降、幕府の「鎖国」政策もあって使節派遣は歴史の奥底に沈むことになる。
 仙台を交易拠点にするなど、無謀で無意味な試みだったのだろうか。仙台市博物館の学芸員佐々木徹さん(43)は首を横に振る。「外国との公式の通商交渉は幕府を含めどの大名にも手掛けられなかった偉業。400年後の仙台が国際交流都市をうたう原動力になっている」

 まいた種が、いつでもすぐに花を開き実を付けるとは限らない。
 慶長遣欧使節が再び日本史に登場するのは約250年後、明治政府の岩倉具視らが欧米を歴訪した際、イタリアで支倉の書状を目にしてからだ。江戸初期の一地方大名による本格外交の足跡は、近代の要人を驚かせた。21世紀最初の年、かつて支倉が仙台に持ち帰った肖像画や聖具など市博物館所蔵の47点は、日欧交渉史の貴重な資料として国宝となり、うち3点は2013年、ユネスコの世界記憶遺産にも登録された。
 政宗は晩年、使節について「宝物を求めるためでなく、異国への評判(外聞)のためだった」と述懐している。その真意は測りかねるが、確かなことが一つある。政宗が思い描き、支倉が苦難を乗り越え成し遂げた旅。それは東西交流の輝く航跡となって現代の私たちを導く。(生活文化部・阿曽 恵 写真部・岩野 一英)

<メモ>遣欧使節が出帆する2年前の1611年、奥州沿岸を慶長大津波が襲った。文献にある災害記録の見直しが進む中で、一部研究者から造船と海外交易の意図が伊達政宗の復興事業だったとする見解が示されている。ただし史料的根拠に乏しく、慎重な検証を求める声が上がっている。