人間が、お互いの名前と顔を一致させて活発に付き合える範囲はせいぜい150人程度。ちょうど年賀状をやりとりする数ぐらいという。そのサイズは狩猟生活の昔からそんなに変化はない。
 しかし国家の概念を背景にした途端、同胞意識は途方もなく膨れ上がる。一生の間に出会うことのない「見知らぬ人」とも心を通わせ合えるようになる。先日、著名な社会学者の講演で聞いた。
 熱戦が続く平昌冬季五輪に思い当たる。同胞意識を利用する意図が働けば危険だ。北朝鮮と韓国。分断された人々の真の融和とは何か違うものを感じる。
 他方、フィギュアスケートで2連覇した羽生結弦選手の偉業をたたえる国民的熱狂。誰かが仕掛けたわけでもない復活のドラマに国中の人々が酔いしれた。
 羽生選手のひたむきな努力、スポーツの健全性を前提に、国民の同胞意識は一瞬にして生まれた。五輪はそれを可能にさせる数少ない舞台なのであろう。
 もっとも、多くの女性ファンにとって羽生選手は同胞とは言えなさそう。自分の「息子」や「恋人」であるのだから。