これは釜石じゃない。俳人の照井翠さんはがれきの中を歩き、そう思った。東日本大震災から3日目、自分が住む同市のアパートに向かった。凄惨(せいさん)な光景の中で何体ものひな人形を見つけた。泥で汚れた顔をティッシュで拭いた。作った句が<潮染みの雛(ひひな)の頬を拭ひけり>▼この句の人形を自分の妻だという照井さんの友人がいた。津波で妻を亡くした。ペットボトルの水で妻の顔を清めた。「ごめんな。一緒にいてやれなかった。怖かっただろう。ごめんな…」。そう語り掛け、丁寧に洗ったという(『釜石の風』コールサック社)▼震災からあすで9年を迎える。死者、行方不明者約2万人の一人一人の周りに深い悲しみがある。その悲しみは何度節目の日を迎えようと、どんなに街並みがきれいになろうと、消えない▼照井さんは「人は2度死ぬ」とつづる。1度目は肉体の死、2度目は存在が忘れ去られた時だという。時がたつにつれ、2度目の死を迎える方が増えていく▼当時小学校に入学しようとしていた子どもは中学校を卒業する年齢になった。あの日、1週間前に桃の節句を楽しんでいた多くの子どもたちが天国に旅立った。その死を無駄にしないために私たちができるのは教訓を胸に刻み、語り継ぐことだけである。震災はいつまでも続く。(2020.3.10)