もう一度、あの日に戻って考えてみる。津波の夜、大火災が起きて集落ごと一面の焦土と化したまちにいた。
 戦場跡のような現場を前にし、悲嘆の後、ふと高揚感が湧いた。「ここからはひたすら復興の道を歩むだけ。何年かかっても」。そう信じた。
 東日本大震災は発生からきょうで7年がたった。あの日始まった被災地再生の着地点はまだ遠い先にある。
 この震災で避難生活を送る人たちは依然、7万人超に上っている。宅地や災害公営住宅の整備は計画の8~9割までこぎ着けたが、「安住の地」に腰を落ち着けることができないでいる人も多い。
 時間に翻弄(ほんろう)された被災者の失意の言葉を度々耳にした。「完成を待てなかった」と、よその土地に去った人、「老後が不安で動けない」と仮設住宅で萎縮する高齢者ら。公営住宅の一室で孤独に陥り悲しい最期を迎えた人もいた。
 7年たっても、癒え難い傷や割り切れぬ思いは払拭(ふっしょく)されていない。歳月に流され、取り残された人たちをどう支えられるかが問われている。
 ただ、時はむなしく過ぎていったわけではない。「整理する時間が必要だった」。市民の立場で気仙沼市の復興に関わってきた会社社長高橋正樹さん(54)は言う。
 例えば巨大防潮堤計画。震災の翌年、市民参加の勉強会を立ち上げた。地域事情に沿った堤防のあり方を徹底的に議論した。その蓄積が住民を鍛え行政を動かし、昨年末、宮城県はついに気仙沼湾の一部地区で建設を取りやめた。
 住民が納得できる目標を定め、そこに向かう過程が最も大切なのだろう。復興の原理とはそういうことだ。
 高橋さんは木質バイオマスの熱電併給事業を動かす。山の間伐材を生かし、原発に頼らないエネルギー循環を地域に根付かせようとしている。
 試行錯誤し軌道に乗ってきた難事業。震災がなければ手掛けることのなかった仕事だった。時間をかけねばできない新しい地域づくりもある。
 列島は今、大災害の時代と言える。震災前から人口減が顕著だった東北は、これからの日本社会の「モデル」になり得る。そうであれば、私たちが厳しい復興のプロセスをどう歩むかが、なおさら重要な意味を持つことになろう。
 原発とのスタンスも大きな鍵だ。福島を中心に襲った災禍は、避難者や自治体に全く別の時間軸を強いて復興の足取りを不確かにしている。
 河北新報社の昨年の調査では、東北電力が目指す女川原発2号機の再稼働に7割近くの宮城県の有権者が反対した。過ちを繰り返すことはできない。事故の教訓をどう生かすか。真剣な議論が必要だ。
 失った日常を取り戻し、古里をつくり直そうという被災地の営みに終わりはない。地に足を着け一日一日を生きるしかないだろう。誰にとっても無駄な歳月はないはずだ。