天皇、皇后両陛下は東日本大震災の直後から幾度となく被災地を訪問されている。

 「被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう」-。天皇陛下のビデオメッセージがテレビで放映されたのは、震災からわずか5日後だった。

 食料も情報も不足し、被災地は混乱を極め、傷病者の救護、不明者の捜索、電気や水道の復旧に懸命に取り組みながらも、募るのは不安ばかりであった。いち早いビデオメッセージに被災者の多くが安堵(あんど)感を得たのだった。

 東京都や埼玉県に設けられた避難所へのお見舞いを手始めに、千葉、茨城、宮城、岩手、福島へと両陛下は7週連続で被災地を訪問された。避難所の体育館ではひざまずいてほほ笑みと共に、仮設住宅では歩いて回りながら、温かな言葉を掛け続けた。

 そうしたお二人の姿は、人々の記憶に印象深く刻み込まれていよう。悲惨な災害に打ちひしがれた被災者にとっては、両陛下の訪問は、あすへの希望を取り戻すよすがとなった。困難な復興に立ち向かう心の支えと言えた。

 震災の年の秋、陛下が気管支肺炎で20日近く入院したのは、こうした激務が原因だったという。翌年、心臓手術で入院した際は震災1年の追悼式に間に合うように手術日を決めた事実が明らかになっている。被災地への強い思いには敬服するばかりである。

 侍従長を務めた川島裕氏の著書によれば、前々からぎっしりと詰まっている日程の合間をようやく見つけての被災地訪問だったという。お二人の姿を思い起こすと、自然と感謝の念がわき上がる人は多いに違いない。

 平成の30年余は被害の甚大な自然災害が多発した一方、市民の災害ボランティアが拡大を見せ、国民の一体感が自然に醸成されていった時代であった。雲仙・普賢岳の噴火をはじめとして、両陛下の度重なる被災地ご訪問に国民が感化された効果も大きい。

 被災地に対する思いは平和への願いと通底している。陛下は11歳で敗戦を経験し、疎開先から戻り、廃虚となった東京を見て平和の尊さを痛感されただろう。15歳の誕生日には、まさにその日、A級戦犯が処刑されたという報に接しているはずである。

 一貫して平和に思いを巡らせ、憲法が定める象徴としての天皇像を考究され続けたのは間違いない。かつて記者会見で「象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましい在り方を求めて今日に至っています」と語っている。

 多くの国民が両陛下を敬愛し、この間、皇室に前よりも親しみを感じる人が増えたのは、国民に寄り添う姿勢に長く接してきた結果だろう。平成という多難だった時代に何かしらの温かみが残るとすれば、お二人のおかげである。