日本国憲法はきょう、72回目の誕生日を迎えた。民主主義をうたう新憲法は「澄んだ青空」と形容された。もう空襲から逃げ惑うことはない安心感と喜びを表している。
 条文については、連合国軍総司令部(GHQ)が極秘のうちに作った経緯を根拠として、「米国からの押し付けでは」との見方がされてきた。
 このところ、憲法制定過程の研究と国会議事録の公開が進み、果たしてそうなのだろうかと見直され始めている。いくらかは押し付けられたとはいえ、日本人の考えた草案を下敷きにしていたことが明らかになってきた。
 敗戦直後、憲法学者らでつくる民間のグループが発足し、独自の草案を発表した。戦前の反省を踏まえ、国民主権や言論の自由、労働者の権利を盛り込んでいた。
 GHQは「この諸条項は民主主義的であり、賛成できる」と有力な参考資料に位置付ける。占領を終えて離日した後に改正されないよう、最初から日本人のオリジナルの部分を取り入れた方が合理的という判断もあったろう。
 民間草案の源流を明治期の自由民権運動に見て取れる。なかなか憲法や国会をつくろうとしない政府に業を煮やし、栗原市志波姫出身の民権思想家、千葉卓三郎は国民の権利と法の下の平等をうたった私案を起草した。
 土蔵に眠り、長く人の目に触れることはなかった。87年後の1968年に東京・西多摩で発見されたとき、「いまの日本国憲法を先取りしている」と驚きが広がり、五日市憲法の名が付いた。
 全国に拡大する民権運動を思想にまとめたのが、大崎市古川出身の政治学者、吉野作造だった。「政治の目的は民衆の利益、幸福にある」。非立憲的な政府を批判し、大正デモクラシーの旗手となる。
 その思想は軍部に否定され、姿を消す。戦後になって門下生が再び光を当てることになる。憲法草案を作った民間のグループには吉野の薫陶を受けた人物がそろっていた。
 「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。25条のこの規定は、GHQ案にもなかったものだ。法律家として吉野のまな弟子である衆院議員の鈴木義男(白河市出身)が国会審議で付け加えさせた。人間らしく生きる権利規定は欧米にもあまりなく、進歩的とされる。
 こうしてみると、140年前から地下を流れていた水脈が時を超えて表出し、草の根の精神とともに日本国憲法の中によみがえったと言えないだろうか。個人の自由と尊厳を追い求めた歩みを、私たちはもっと知っていい。
 12条に「国民の権利は不断の努力によって保持しなければならない」とある。長く定着してきたのは暮らしのよりどころとしてなじみやすいからだろう。明日をより確かなものにするために、厚みを増す努力を忘れずにいたい。