最近は、震災発生直後を思い返す機会が少なくなったのではないだろうか。あすで震災9年。時が流れ、日々の生活に埋もれつつある記憶をたどる日にしたい。

 あの日、東北各地に激震が走った。揺れは3分間も続き、驚きが不安に、そして恐怖心へと変わった。

 岩手、宮城、福島3県の沿岸部は津波に襲われた。人々が暮らし、働き、学んだ街は水と泥に覆われ、日常が途切れた。地域の特徴を踏まえた高台や建物上階への迅速な避難行動が命を守った。

 車避難はもろ刃の剣だった。要援護者を遠くに運べる半面、渋滞にはまると車ごと津波に巻き込まれる。有効活用するには、平時から対策やルールを考える必要がある。

 津波が迫った方向は、海からだけではなかった。川を遡上(そじょう)する河川津波も発生。川の堤防を越えて津波が押し寄せた地域もあった。

 内陸部でも電気、水道、ガスが止まり、都市機能がまひした。暗く寒い空間で、電気の要らない石油ストーブや懐中電灯がありがたかった。

 通信網と交通網が途切れた中、安否確認は最も必要とされた情報の一つだった。避難所に掲示された避難者名簿の前で、血眼になって名前を探す人たちがいた。事前に一時避難先、落ち合う場所などを家族で話し合い、速やかな再会に結び付けたい。

 店舗には食料品や生活雑貨を求める人が行列を作った。停電のため店員は電卓をたたき、現金で売り買いした。キャッシュレス化が進むと、現金の用意も大事になる。

 ガソリンが枯渇し、給油所には車列ができた。当時は誰もが燃料の残量が半分になったら補充していた。

 阪神大震災では、がれきの中から生還した人の約8割が家族や住民に救出された。東日本でも避難の声掛けや要援護者の移動の介助などで、家族や住民が重要な役割を果たした。災害時は常にコミュニティーの力が試される。

 避難所生活は身を寄せた人たちの助け合いが欠かせなかった。校舎が避難所の場合、運営主体となる住民は授業再開を想定して、あらかじめ教室の使い方を学校側と協議しておくべきだろう。

 被災地で暮らす私たちは、一人一人が震災の証人であり、家庭や地域、職場での伝承者でもある。9年前を振り返ってみよう。思い出すことがつらい人は無理をせず、思い出せる人だけでいい。

 あの日、何ができて、何ができなかったのか。何に危険を感じ、何が役に立ったのか。そして問いただそう。あの日の教訓と備えの誓いは今、どうなっているのか。

 自然災害は近年、地震、津波、噴火、豪雨と多様化している。掘り起こした記憶には、被災時に被害を軽減するヒントがあるはず。家族や仲間と課題を共有し、身を守る行動につなげてほしい。