障害者への差別と偏見はなぜ、どのように生じたのか。私たちは事件からどんな教訓を考えるべきなのか-。社会への問いが多く残ったまま、法廷は閉じられた。

 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年7月、入所者19人が殺害され、職員を含む26人が重軽傷を負った事件の裁判員裁判で、横浜地裁は殺人罪などに問われた元職員、植松聖被告に求刑通り死刑判決を言い渡した。

 裁判の争点は被告の責任能力の有無と程度に絞られ、遺族や障害者らが望んでいたという、凶行に至った経緯や原因、背景の解明がなされたとは言い難い。

 判決は被告の責任能力を認めた上で、結果の重大性を考慮し極刑を判断した。動機については、被告は園での勤務体験などから「意思疎通ができない重度障害者は周囲を不幸にする不要な存在」との考えが生じ、「自分が殺害すれば不幸が減る」と考えたと指摘した。

 だがそれは、被告が一貫して主張してきた論理である。被告の差別思想がどのように形作られたのか、社会の何が被告に影響を与えたのか、肝心の惨事の深層は解き明かされずに終わった。

 被告は判決後、控訴しない意向を示した。このまま判決が確定すれば、再発防止へ向けた教訓は得られなくなってしまう恐れがある。

 一方で、裁判を通して確認できたのは、犠牲になった障害者一人一人が家族らにとって、どれだけ大切な存在だったのかということだ。

 「兄は家族の誕生日にはカレンダーを指して『おめでとう』の気持ちを表現した」「娘はいろんな表情で自分を表した。たくさんの人を癒やし、幸せにしてくれた」

 遺族の意見陳述などから浮かび上がる姿は、かけがえのない一人として生きる人間像である。被告が「生産性のない命には価値がない」とする主張とは程遠い。

 今回の裁判では、被害者は1人を除き、「甲A」などと匿名で審理された。傍聴席内に設けた遺族らの席は、ついたてで遮蔽(しゃへい)された。

 何の落ち度もない被害者や家族らが偏見や差別を恐れ、こうした異例の措置を取らざるを得ない。それは、社会の実相を映し出している。今に生きる私たちや社会に障害者に対する差別意識が潜んでいないのかどうか、自ら問いただす契機としたい。

 裁判では量刑を決めるだけでなく、二度と事件が起きないよう社会で議論し、考えてほしい-。事件で19歳の娘を亡くした母親は、初公判前に「美帆」という娘の名を手記で公表し、そう呼び掛けた。「障害者が安心して暮らせる社会こそ、健常者も幸せな社会だと思います」とも手記にしたためた。

 その思いに私たち一人一人が向き合う必要がある。