幕末から明治維新にかけて活躍した米沢藩出身の志士、雲井龍雄(1844~1871年)の顕彰活動が、地元の米沢市で熱を帯びている。

 市民有志が一昨年、NPO法人雲井龍雄顕彰会を結成。没後150年となる来年夏を目標に、雲井の墓がある市内の常安寺に等身大の銅像を建立する計画を進めており、シンポジウムの開催や寄付金の募集を続けている。

 雲井は激動の時代にあっても義を貫き、「憂国の志士」と呼ばれる一方、広く学問を修め、ロマンチシズムあふれる流麗な漢詩を数多く残した。その生き方と詩作は自由民権運動に身を投じた人々をはじめ幸徳秋水や西田幾多郎、三島由紀夫らに大きな影響を与えたとされる。

 顕彰会は将来的に資料館を整備する構想も温めながら、関連資料の収集を急いでいる。地道な活動を通じ、雲井の思想や人物像にさまざまな角度から光が当てられることを期待したい。

 最近は戊辰戦争への関心の高まりを背景に、雲井に関する新たな資料や情報が少しずつ各地から顕彰会に寄せられるようになっている。

 雲井の親戚筋の子孫に当たる仙台市青葉区の小関幸生さん(85)、友子さん(82)夫妻が昨年9月、雲井の直筆の可能性がある漢詩の書を会に寄贈したのが好例だ。梅の花に女性への思いを重ねた夢想的な詩が伸びやかな字体でつづられており、義に生きた志士とは趣を異にした雲井の一面が伝わってくるようだと、専門家も指摘している。

 幼いころから学問に秀でていた雲井は、米沢藩の探索方となり、江戸や京都で薩長軍の情報収集に奔走。戊辰戦争では、薩摩軍の非道を告発する「討薩の檄(げき)」を起草し、奥羽越列藩同盟の奮起を促したことで有名だ。維新後には一時、政府に重用されたが、薩長支配への批判を貫いたため反逆罪に問われ、27歳の若さで斬首された。

 顕彰会の屋代久理事長によると、明治政府ができて初の政治犯となった雲井の足跡は、戊辰戦争後の米沢藩の微妙な立場もあってか、地元でも語ることさえ、長くタブー視される時期が続いた。

 1930年には、建築家の伊東忠太や法学者の我妻栄ら米沢ゆかりの著名人らが「雲井会」を結成した。東京の墓地から雲井の首を常安寺に移葬し、墓を建てたが、今でも市民の間で広く知られ、親しまれる存在にはなっていないという。

 屋代理事長は「雲井は地元でも、長く罪人とみなされてきたが、最後まで信念を貫き通した生き方、思想は語り継がれるべきだ」と強調する。

 歴史は言うまでもなく、勝者、支配者だけがつくるものではない。人々が雲井の生き方や思想を起点に幕末から明治維新を見直す作業は、きっと東北の現代、そして未来に生きるに違いない。