東日本大震災による津波で、宮城県石巻市大川小は児童74人と教職員10人が犠牲となった。学校から約3.7キロ離れた沿岸部を襲った津波の目撃情報は、校庭で待機する教職員らに伝わり、情勢は一挙に緊迫する。第4部は当時の児童や住民らの証言を基に、3月11日午後3時25分ごろから津波襲来までの状況を再現、検証する。(大川小事故取材班)

◎15:25~津波襲来
 「三角地帯へ逃げるから、走らず、列を作っていきましょう」
 3月11日午後3時30分すぎ、石巻市大川小の男性教頭=当時(52)=らが、校庭に避難していた児童たちに呼び掛けた。
 「まだ危ない状況ではないと思っていた。移動すんだな、みたいな」。当時5年の只野哲也さん(18)=高校3年=は、まだ切迫した雰囲気は感じなかった。
 6年担任の男性教諭=当時(37)=らを先頭に、児童たちは釜谷交流会館の方向に歩き始めた。当時、学校には教職員11人と児童約80人がいた。

 釜谷に住んでいた当時中学1年の木村優斗さん(20)=大学2年=は、父親と一緒に当時5年の弟を迎えに来た。地震発生後、北上川の底が見えるくらい水が引いているのを目撃していた。
 父親は大川小前の県道に車を止め、木村さんが校庭に向かった。友達と話しながら歩く弟を見つけ、連れて行こうとすると、6年の担任に「(名簿に)チェック入れるから待ってて」と引き留められた。
 「そんなのしてる暇ねーがら」。木村さんは無視して弟と走って車に戻った。「津波が来るとは意識してなかったが、本能的な動きだった」と振り返る。
 教職員と児童たちは自転車小屋脇の通用口から市道に出た。大人1人程度の幅しかない。市道を挟み、隣接する釜谷交流会館の駐車場に向かった。
 前方にいた只野さんは「えっ?」と思った。「三角地帯に行くって言うのに、こっちなら山の方が近いんじゃないかな」。疑問が頭の隅をかすめたが、教員の後を追った。
 駐車場の出入り口に差し掛かった時、教頭が県道側から市道を走ってきた。「津波が来てるから早く避難して」。大きな声だった。
 教頭の声をきっかけに児童たちは小走りになった。只野さんも「急がないとやばい」と感じ、駆け足で会館前を横切った。
 避難場所を探すため、校舎に入った男性教務主任(56)はこの頃、校庭に戻り、列を追ったとされる。保護者宛てのファクスで「校庭に戻ると、既に子どもたちは移動を始めていた」と記している。

 長面(ながつら)に住んでいた永沼輝昭さん(77)は午後3時30分ごろ、孫2人を迎えに行った妻を会館駐車場で待っていた。友人から「波に追っかけられてきた」と聞き、校庭にいる妻に「早くしろよ」と呼び掛けた。
 間もなく児童の列に交じって妻が戻ってきた。「山さ逃げっと」。声を掛けたが、妻は「みんなとあっちに行くから」と告げ、永沼さんの目の前を通り過ぎた。
 列の最後尾から3~5メートル離れ、地元の民生委員の女性が児童に声を掛けながら付いて行った。児童の列は山裾の裏道に入り、永沼さんの視界から消えた。
 釜谷の元住民高橋和夫さん(70)は自宅近くで、北上川の堤防を越えてあふれ出す水を見た。車で裏山に向かうと、会館前を通過する児童たちの後ろ姿が見えた。
 「なんで、この時間に何してんだべな。どこさ行くんだべ」。不審に思いつつ、山裾に車を止めた直後、ものすごい音がした。
 「バリバリバリ」
 「ダダダダァーッ」
 「山さ上がれぇーー!」
 高橋さんは大声で叫びながら夢中で山に登った。