宮城県の石巻市大川小は東日本大震災の津波で壊滅した。「きっと避難しているはずだ」。保護者たちの願いは無残に打ち砕かれ、児童70人が死亡、4人が行方不明となり、児童を保護していた教職員10人も犠牲になった。第6部は過酷を極めた遺体捜索の現場と、行方不明の児童を待つ遺族の終わらない苦悩の日々を追う。(大川小事故取材班)

 原爆でも落ちたのか?
 これは現実なのか?
 鈴木義明さん(56)は3月13日朝、石巻市の釜谷地区を見渡せる北上川の堤防道路(三角地帯)にたどり着き、言葉を失った。
 足元に遺体が転がっている。見慣れた釜谷の町並みは、大川小と釜谷診療所を除き、何もかも破壊されていた。目に映る光景に脳がうまく対応できない。
 震災から2日間、大川小に通う6年の長男堅登(けんと)君=当時(12)=、4年の長女巴那(はな)さん=当時(9)=と会えずにいた。情報がなく、いら立ちはピークに達していた。
 「お父さん、津波の時は山か校舎の2階に避難するように言っていますから、安心してください」
 休暇で学校を離れていた当時の校長柏葉照幸氏が震災当日の夜、避難所で自信ありげに話していた。目の前の惨状に、むなしい響きにすらならない。

 体格のいい男の子の遺体が見つかった。「おらいの堅登か?」。顔中、血だらけの無残な姿。息子ではなかったが、涙が出た。
 約11キロ離れた避難所に戻り、妻実穂さん(49)や他の保護者に伝えた。
 「大川小は全滅だ」
 望みは捨てた。義明さん、実穂さん夫妻は14日から遺体捜索に加わった。
 スコップやつるはしはなく、素手や木の枝で土砂を掘り返した。重機もなく、大きな流木や建物の壁は人力でよけた。
 大川小の裏山の麓で児童の遺体が次々に見つかった。行方不明4人を除き、犠牲となった児童70人中、ここでは34人が折り重なるようにして息を引き取っていた。
 津波襲来時、三角地帯を目指していた児童らが移動中に追い込まれた場所だと、後で知った。ちょうど校庭と三角地帯の中間地点。ただ、その先に大勢の児童が通れる道はなかった。
 震災の関連死や行方不明を除く死者約1万6000人の死因は、9割が「溺死」。大川小児童も大半が溺死だ。児童の遺体発見状況から「半数程度は圧死や損傷死、あるいは凍死だった」と考える遺族は少なくない。
 住民が衣装ケースに井戸水をもらい、遺体の顔の汚れを拭き取ってくれた。「あそこの息子に似てねえかや」。3世代同居が多く、つながりが強い地域だけに誰かが顔や名前を知っていた。
 「うちの娘だ」「おらいの孫だっちゃ…」。子や孫を自らの手で見つける人も少なくなかった。
 夕方、その日の捜索を終え、遺体をトラックに積み込んだ。目立った外傷もなく、眠っているような顔。泥と血にまみれ、性別も分からないほどむくんだ顔。感情を押し殺し、黙々と運んだ。

 震災8日後の19日、堅登君が見つかった。大川小から500メートルほど山側に入った富士川沿い。遺体安置所で対面した姿は、すぐに息子と分かるほど、きれいな顔だった。
 上半身は裸。ジーパンは腰で止まっていた。目、鼻、口、耳、毛穴、全てに砂が詰まっていた。小さな木片が体中に刺さっていた堅登君に、鈴木さん夫妻は「頑張ったね」と声を掛けた。
 見つかったとき、電線が体に巻き付いていたという。実穂さんは「電線がなかったら、もっと流されていたかもしれない」と話す。
 7年たつ今も巴那さんが見つからないとは、当時は思いも寄らなかった。