鈴木義明さん(56)、実穂さん(49)夫妻は2011年3月27日、息子の亡きがらを車に乗せ、新庄市に向かった。石巻市大川小の6年だった長男堅登(けんと)君=当時(12)=を火葬に付すためだ。
 東日本大震災で約1万8500人が死亡・行方不明となり、石巻市内だけで約3700人が犠牲となった。近隣の火葬場は常にいっぱい。多くの遺族が遠く県外まで足を延ばした。
 家族旅行で何度も通った国道47号を山形へと向かう。行く先々で子どもたちとの思い出が浮かび、景色が涙でにじむ。中山峠を越えると雪が舞っていた。
 堅登君は19日に見つかった。幸いきれいな顔だったが、日を追うごとに暗い紫色に変わっていった。腐敗を防ぐドライアイスがなかなか手に入らない。保護者同士で分け合うと、小石程度しか残らなかった。

 連日、遺体捜索に参加し、ようやく再会できた息子。ずっとそばに置きたい。変わり果てていく姿を見ていられない。振り子のように心が揺れる。
 「早く骨にしてあげたい。堅登、ごめんね」
 実穂さんは普段着、義明さんは仕事用の作業着で火葬場に向かった。沿岸部にある長面(ながつら)地区の自宅が津波で流失し、二人ともあの日から着の身着のまま。車は知人から借り、花や供物は親類が用意してくれた。
 堅登君は仙台市の東北学院中に合格した。袖を通すはずだった制服をひつぎに入れた。学生服姿に合成した遺影を持参した。骨は大人と変わらないほど太かった。こんな形で息子の成長を感じる現実が、やるせなかった。
 参列した実穂さんの父小山吉郎さん(81)、母京子さん(78)の落胆ぶりは、鈴木さん夫妻が心配するほどだった。吉郎さんは帰りの車中、孫の遺骨を抱きしめ、ずっと話し掛けていた。
 長く、重苦しい一日が終わった。夜、市河北総合センター「ビッグバン」の避難所に戻ると、義明さんは異変を感じた。天井がぐるぐる回っていた。
 義明さんの母好子さん(72)は、21日に遺体で見つかった。4年だった長女巴那(はな)さん=当時(10)=の捜索のため、一時的に土葬せざるを得なかった。「巴那もすぐ見つかると思っていた」と実穂さん。火葬場が空き次第予約し、別の遺族に譲る繰り返しだった。
 毎日午前5時半に起きる。冷水で顔を洗うたび、涙が出る。子どもたちをのみ込んだ波の冷たさを思う。7時に集合し、トラックの荷台に乗せてもらう。夕方まで捜し、トラックで帰路に就く。
 遺体安置所の閉館間際に駆け込み、新たに運ばれた遺体の確認も日課になった。避難所に戻り、午後9時に消灯。狂いそうな日々を規則正しく繰り返した。

 義明さんも実穂さんもふわふわと地に足が付かない。悪夢の中をさまよっている感覚のまま、時間に押し流されていく。頭が現実に追いついたのは、1カ月ほどたってからだ。
 何で家に帰れないんだろう。家がない。お金がない。着るものがない。仕事にも行っていない-。
 子どもを失い、これからどうやって生きる?
 堅登と巴那は、なぜ、こんなことになったのか?
 学校は子どもたちを守ってくれなかったのか?
 大川小であの日、何があったのか?
 絶望の淵から水泡のように疑問が次々と浮かび上がってきた。