「見つかって良かったね」「早く見つかるといいね」
 わが子の亡きがらに会えたことを喜ぶ。巨大津波の爪痕を前に、遺族は「わが子を見つけ出し、手厚く葬る」ことにせめてもの慰めを見いだしていた。
 東日本大震災から1カ月、石巻市大川小の児童10人の行方がまだ分からなかった。鈴木義明さん(56)、実穂さん(49)の長女巴那(はな)さん=当時(9)=もその一人だった。
 約1万8500人の死者・行方不明者のうち、小中学生は計351人。8割は学校以外で亡くなった。学校による避難行動中の犠牲は、大川小の児童73人と宮城県南三陸町戸倉中の生徒1人の計74人。教師の管理下で多数の犠牲を出した大川小は突出していた。

 震災当日、休暇で学校にいなかった柏葉照幸校長は、震災6日後の3月17日、初めて現場に姿を現した。泥まみれで捜索する遺族を横目に職員室の金庫を捜していた。
 震災1カ月後の4月9日、石巻市教委が初めて説明会を開いた。「どうして早く来なかった? 見つかっていない子ども、死んだ子ども、名前言える?」。遺族の激しい怒りを受け、市教委は翌日、柏葉氏ら8人を捜索に行かせた。
 遺族はわが子の捜索、ドライアイスの確保、火葬の手配に無我夢中だった。そんな遺族を打ちのめしたのが、市のトップによる心ない一言だった。
 6月4日の第2回説明会で、亀山紘市長は「自然災害の宿命」と述べた。「あの一言がなければ裁判にならなかった」と話す遺族は少なくない。
 6月、空席だった教育長に境直彦氏が就き、全遺族宅を弔問する考えを示した。鈴木さん夫妻は慌てて仮設住宅に長男堅登(けんと)君=当時(12)=の位牌(いはい)と仏具を用意した。
 半年たっても来ない。聞くと、「まだ巴那さんが亡くなったと思っていない」と言われた。息子は亡くなった。遺族の中で序列を付けられたようで、テレビの取材に不満をぶつけた。放映直後の12月末、教育長が弔問に来た。
 震災直後、南三陸町などでは遺体捜索に水中ロボットが活用されていた。市教委に要請すると、「多額の予算がかかる」と明細を示された。採用されたのは簡易的な水中カメラだった。
 捜索に消極的な姿勢に危機感を抱き、9月に市役所を訪れ、捜索継続を文書で求めた。「娘が見つかってさえいれば…」。娘のために我慢して頭を下げた。

 発見される遺体の状況は日に日に悪化していった。頭や手や足がない。長く水に漬かった遺体はろう人形のようだった。暖かくなり、遺体安置所は強烈な臭いが充満していた。
 不明児童は4人に減り、同時に捜索に参加する遺族も一人、また一人と減った。わらにもすがる思いで占い師や霊能者を頼ると、「娘は命を落とした直後にバラバラになった」と言われた。ショックだったが、捜索をやめる理由にはならなかった。
 「せめて、骨だけになる前に、少しでも肉片が付いているうちに見つけてあげたい」。炎天下の砂浜、氷が張った川面。震災から丸2年、鈴木さん夫妻は現場に通い続けた。