宮城県の石巻市大川小は東日本大震災の津波で壊滅した。「きっと避難しているはずだ」。保護者たちの願いは無残に打ち砕かれ、児童70人が死亡、4人が行方不明となり、児童を保護していた教職員10人も犠牲になった。第6部は過酷を極めた遺体捜索の現場と、行方不明の児童を待つ遺族の終わらない苦悩の日々を追う。(大川小事故取材班)

 仏壇に毎朝、ご飯とみそ汁、おかず2品を供える。津波にのまれ、冷たい水をたくさん飲んでしまったわが子を思い、夏でも温かい飲み物を添える。
 鈴木義明さん(56)、実穂さん(49)夫妻が2015年5月、東松島市に再建した自宅での日課となった。石巻市大川小6年の長男堅登(けんと)君=当時(12)=を亡くし、4年の長女巴那(はな)さん=当時(9)=は今も行方が分からない。

 震災から2年間、石巻市の仮設住宅から連日、巴那さんの捜索に通い、生活再建は後回しだった。気付けば周囲は再建への歩みを進め、焦燥感に駆られた。
 実穂さんは捜索に専念するため、仕事を辞めた。夫婦ともども一人っ子。年老いたら誰がみとってくれるのか。先祖代々の墓を誰が守ってくれるのか。不安が頭から離れない。
 石巻市長面(ながつら)生まれの義明さんは5歳の時に父を亡くした。父との思い出はほとんど記憶にない。津波の犠牲となった母好子さん=当時(72)=と苦労を重ね、ようやく人並みの幸せを手にした。「不幸な人は死ぬまで不幸」と義明さん。家族3人と自宅を一瞬で奪われ、諦めの感情が胸を支配する。
 学校管理下にあった子どもたちの命がなぜ守られなかったのか。14年3月、悩んだ末、大川小事故を巡る訴訟に参加した。石巻市教育委員会の事後対応への怒りもあった。行方不明の娘の無念さを代弁せずにはいられなかった。
 実穂さんは「私たちには語り継ぐ未来がない」と言い切る。ただ、学校管理下で子どもを亡くした親が泣き寝入りしないで済む判決を勝ち取ることが、せめてもの救いと感じている。
 実穂さんはこれまで3度、法廷で意見陳述した。わが子に背中を押されているような気がして、不思議と緊張しなかった。仙台高裁の控訴審判決は4月26日。提訴から4年、静かに審判を待つ。

 今月22日は巴那さんの17回目の誕生日だった。実穂さんはプレゼントに香水を選んだ。写真の中の娘はランドセルを背にほほ笑んだまま。「もう高校生だから…。想像もつかないけど」
 物おじせず、負けず嫌いな娘だった。「津波が来ても泳ぎ切ってやる」。生前、こう話していた娘は、もしかしたら本当にハワイ辺りまで泳ぎ着き、誰かに育てられているんじゃないか-。義明さんの空想は、いつもため息で終わる。
 堅登君は震災翌月、私立中学に進むはずだった。放射線技師になるのが夢だった。来年は成人式。どんな大人に成長していただろう。確かめるすべはない。
 義明さんは、いまだに昔の家族写真を見ることができない。実穂さんは、震災前の記憶を深くたどれないでいる。思い出に深入りし過ぎて、二度と現実に向き合えなくなりそうで怖い。
 「7年たってもこれか、と思うけど…。一生こうやって生きていくのかな」と実穂さん。義明さんは「時間が解決するなんてうそ。思いだけ取り残され、時間だけが勝手に進んでいる」と話す。
 母子手帳も、子ども2人のへその緒も津波で流された。帝王切開の傷跡だけが、堅登君と巴那さんがこの世に生を受けた唯一の証しになった。