東日本大震災の津波被害を受けた東北の海岸線は400キロに及ぶ。そこで起こったことが詳しく報じられていない被災現場もまだある。なぜ犠牲者が出たのか。どうすれば助かったのか。「わがこと」として自分や家族に重ね、身を守るすべを意識するところから、備えは始まる。証言を集め、教訓を探るため、岩手、宮城、福島の4カ所の被災現場に入った。
(「いのちと地域を守る」取材班)=第1部は4回続き

◎職員ら、なすすべなし

 「津波はここまでは来ない」。震災ではそんな想定が足かせとなり、各地で多くの命が失われた。海を臨む宮城県の石巻市雄勝病院もその一つだった。

 堤防をのっそり乗り越え、津波は来た。

 事務職員の遠藤祥克さん(47)は、やや高い場所にある市雄勝総合支所に看護師の車を移し、歩いて病院に戻る途中だった。大人の背丈以上の防潮堤から水があふれている。本館に駆け込んだ。

 1、2階に誰もいないのを確かめ、階段を駆け上がり、最上階の3階に向かう。病室から海の様子を見た。

 「うまくないな」

 水が徐々に上がってくる。1階が浸水した時は危機感はなかった。「機械がだめになった。どうすっかなあ」。2階ものまれた。窓ガラスがバリバリと割れる音がする。「大丈夫だ。3階は安全なはずだ…」

 病院は石巻市の防災計画に基づき、防災対応マニュアルを作っていた。

 津波の高さは最大6メートルと予想。鉄筋コンクリートの建物は海抜数メートルにあり、入院病床は3階(高さ6.8メートル)に置いた。

 震災当日、外来診療は終わり、ベッドは入院患者40人で満床だった。ほとんどが自力で歩けないお年寄りだった。

 「この人を上げて!」。看護部長の指示で、遠藤さんや薬剤部長ら男性職員4人がシーツの四隅をつかみ、高齢の患者を持ち上げる。

 「どこさ引っ張っていがいんだべ」。シーツの中のお年寄りは不思議そうだった。やせた人なのに、重い。4人で1人を運ぶのがやっとだ。

 津波が3階の窓ガラスを突き破った。多くの患者が残っていた。

 屋上に上がった職員は遠藤さんら7人ほど。津波は屋上に達し、勢いは衰えない。お年寄りを抱きかかえて逃げまどった。自分で自分を守るしかない時が来た。お年寄りを下ろす前、薬剤部長が言った。「ごめんなさい、ごめんなさいね」。水にお年寄りが浮いた。

 遠藤さんも水に囲まれ、塔屋の壁に追い詰められた。波にさらわれる瞬間、「助けてー」と叫んだ。家族を思った。

 同じころ、本館と棟続きの新館屋上には、看護助手の女性ら少なくとも7人の職員がいた。

 小雨が降る中、四方八方から水が押し寄せる。コンクリートの柵の上に全員が並んだが、すぐ膝まで漬かった。女性は海に入った。着ていたのは看護服だけだった。

 バタ足で、流れてきた家の屋根を目指す。近くにいた副院長が押し上げてくれた。副院長と看護師1人も同じ屋根につかまった。

 屋上に残っている職員がいた。副院長は「頑張れー」「何かにしがみつけー」と励ましていた。

 何度目かの波で、3人とも海に落ちた。女性はまた屋根にしがみついたが、副院長と看護師は別の家の残骸につかまり、流されていった。

 「誰かいませんかー」。心細かった。遠くから看護師の声が聞こえた。

 「頑張ってー」

 津波は最終的に屋上を数メートル越えた。入院患者は40人全員、職員は病院にいた30人中24人が死亡、または行方不明になった。

 遠藤さんは津波に巻き込まれた後、がれきや小舟に乗り、18時間近く漂流。翌朝、救助された。

 看護助手の女性は日暮れ前、岩場に泳ぎ着いた。一緒だった副院長と看護師は帰らぬ人になった。

◎自助と共助の境で 湾の表情一変、立地災い

 石巻市雄勝病院は雄勝湾の奥にある。病室からは行き交う小舟が見え、窓を開ければ海風を感じられた。

 普段、穏やかな表情を見せる入り江は、奥に進むほど狭くなり、津波の高さが増しやすい地形でもあった。その立地が災いした。

 目撃者によると、病院に津波が押し寄せたのは地震発生から30分足らずの午後3時12~13分ごろとみられる。3階の壁時計は午後3時27分で止まっている。

 1960年のチリ地震津波で、病院付近は1メートルほど水に漬かった。当時は海と陸を隔てる堤防はまだなかった。

 病院のすぐ裏手に住んでいた永井捷一さん(71)が証言する。

 「病院の建て替え計画が持ち上がった時、亡きおやじは『ここは津波が来るから危ない。裏山に建てるべきだ』と反対した。でも、誰も聞き入れなかった」

 震災当日、永井さんは自宅で地震に遭った。突き上げるような縦揺れに、横揺れ。「チリ地震以上のとんでもない津波が来る」と直感した。

 病院3階には母としよさん=当時(91)=が入院している。母の身を案じたが、覚悟した。「裏山へ逃げるしかない」

 弟たちを先に逃がし、山へ向かう途中、病院裏の駐車場で副院長ら職員に会った。「病院はもうだめだ、高台に行け!」と叫んだ。「患者さんを置いて逃げられない。3階に上がります」と副院長は応じ、建物に戻っていった。

 裏山に登った永井さんは対岸にぶつかった波が跳ね返り、病院に覆いかぶさるのを見た。「ああ、おふくろ」。目を閉じた。

 後日、としよさんの遺体は病室で見つかった。揺れの後、しゅうとめの元に駆け付けた妻みさ子さん=当時(61)=は、ドアにもたれるようにして亡くなっていた。実の母子以上に仲のいい2人だった。

 震災の2日前、3月9日にも地震があった。「万が一津波が来たら、お前、誰も構わないで逃げるんだぞ」。永井さんはその晩、妻と避難方法を話し合い、念を押した。

 みさ子さんは震災当日、車を高台に移した後、病院に向かったとみられる。「あれだけ言ったのに…」

 津波の時は、自分1人でも逃げる。つらく、厳しい信念が永井さんの命を救った。一方で、病院の職員たち、みさ子さんのように、誰かを助けようとしたまま、命を落とした人たちがいた。

◎新たな施設は高台へ 想定の固定化反省点/東北大災害科学国際研究所副所長(津波工学)・今村文彦さん

 震災後、石巻市雄勝町に調査に入った。雄勝病院と海を隔てるのは防潮堤と県道だけ。海との距離が極めて近いと感じた。ただ、震災前はある程度の高さと津波に耐える力を備えた建物なら問題ないと考えられていたのも事実だ。

 海沿いの病院や高齢者施設は全国的に多い。新たに建てる施設は浸水域外の高台など安全な所に置いてほしい。寝たきりの人が多いなど緊急時の避難が難しく、高さが不十分な施設も、立地や備えの在り方を見直す必要がある。

 雄勝町は以前から津波への意識が極めて高かった。今回も津波の規模に対し、全体の犠牲者は非常に少ない。80%の住宅が全壊した中、犠牲率が5.5%という数字が物語っている。

 雄勝町を含め、各地の防災の取り組み自体は無駄ではなかった。でも被害が出たのはなぜか。自分も含め、一つの想定で備えを固定させてしまっていた。

 訓練も避難計画も、何らかの想定なしには成り立たない。大切なのは、一つの想定に縛られないこと。より小さい規模、より大きい規模も加え、三つのケースを考える必要がある。

 例えば、安全だと思っていた避難場所まで津波が来そうな時、どこに逃げるか。避難用の道が倒壊した家でふさがっていたら…。避難中もラジオなどで情報を集め、一歩先を考え続けることだ。

 防災の取り組みに終わりはない。震災で明らかになった課題、昨年12月7日の地震で繰り返された課題、一人一人ができることを見つけて積み重ねていく。防災と復興は表裏一体。被害を繰り返さないことが、震災を乗り越える原動力になる。

[英訳] http://www.kahoku.co.jp/special/spe1151/20141207_06.html