◎高台避難、足りぬ人手

 津波に襲われた福祉施設は、限られた職員で入所者を施設の外に運び出さなければならなかった。岩手県山田町の介護老人保健施設「シーサイドかろ」は避難した後、さらにより安全な高台を目指した。しかし、96人の入所者を移すには人手も時間も足りなかった。

 「命の重み」が全身にのしかかった。

 介護主任の佐々かほるさん(55)は懸命に車いすを押した。施設の外の一次避難先の広場から、二次避難先の山田町海洋センターに続く上り坂。

 広場には、親しみを込めて「おじーやん」「おばーやん」と呼ぶ高齢者が順番を待っている。女性の力では傾斜がきつい。車いすが重い。時間がどんどん過ぎる。

 背後で波の音を聞いた。ほぼ同時に、冷たい水に足をすくわれた。

 「津波が来る」

 長く、大きな揺れに、職員48人の誰もが身構えた。ベッドのお年寄りを車いすに乗せ、寝たきりの人はベッドのまま、2階通路に移した。休みの職員も駆け付けた。

 かろは1990年、運営法人理事長の医師近藤晃弘さん(52)の亡き父勝雄さんが建てた。海水浴場を望み、海の仕事をしてきた住民にとって自宅のような存在だった。

 鉄筋コンクリート一部3階建て。2階から突き出た高架スロープは、非常用扉から裏山の避難広場に続く。自力で逃げられないお年寄りの命の動線だ。

 非常用の自動扉は開かなかった。隣の扉は約10センチの段差があり、車いすやベッドの搬出に手間がかかる。

 施設は昭和三陸津波(33年)の津波到達ラインの上にある。町のハザードマップは、海抜7メートルの2階まで津波は来ない−と想定していた。

 佐々さんは「施設でも安全かな」との考えもよぎったが「万が一の場合もある。(二次避難先の)海洋センターに運べるようにもしよう」と職員と申し合わせた。段差には合板を渡した。

 職員は十数人ずつ「施設」「避難広場」「坂道」に分かれ、入所者の搬送に駆け回った。

 「早く出して」。声を掛け合いながら、施設から高齢者を運び出し、避難広場で受け止めた。広場には車いすやベッドが並んだ。

 まだ巨大津波の気配はなかったが、万全を期そうと、広場より7メートルほど高い海洋センターを目指した。同センターは町指定の津波避難場所でもある。同僚たちは車いすを押して平地を30メートルほど進み、坂道を約100メートル上った。駆け下り、再び車いすを押す。

 「早く上げろ、もっと上だ」。急に、せっぱ詰まった声が響いた。津波が迫っていた。

 地震発生から約40分後の午後3時25分ごろ。濁流が猛烈な勢いで施設と避難広場を覆った。

 佐々さんも坂の途中で、津波に追い付かれた。「流される」と思った直後、近くにいた男性が、車いすごと引っ張り上げてくれた。

 施設は本震の後、自力で避難できるデイケアの通所者47人を送迎バスで海洋センターに避難させた。懸命な搬送リレーで入所者22人を救った。

 一方、犠牲者は入所者74人と職員14人に上る。介助の必要なお年寄りを運ぶのは、職員の力だけでは限界があった。

◎「てんでんこ」限界/避難困難者、助けわずか

 シーサイドかろの北隣には、重度知的障害者が入所する「はまなす学園」があった。津波の危険が迫れば、山田町海洋センターに歩いて避難することになっていた。

 大きな揺れに障害者が動揺し、歩いて逃げるのは難しそうだった。学園職員15人は、入所者と通所者の計41人をバスに乗せ、センターに運んだ。

 施設に残っていた職員は海洋センターに歩いて向かった。その途中、かろの避難広場で職員たちが慌ただしく動く姿が目に飛び込んできた。

 お年寄りを乗せた車いすやベッドを高架スロープを通って広場に運び出している。

 「手伝って」と声が掛かった。5人ほどの学園職員が、ベッドや車いすを押して海洋センターに続く坂道を上った。

 津波が駆け上がったのは、間もなくだった。学園職員1人は車いすで2人目を運ぶ途中で津波に足を取られた。別の職員は津波にさらわれ、一時漂流したが、九死に一生を得た。

 学園職員は無念さをにじませる。「うちも混乱する重度障害者を守らなければならなかった。少ない応援で、限られたことしかできなかった」

 毎年9月の地域の防災訓練では、住民は津波避難場所の海洋センターまで歩いて避難するのが常だった。

 本震の直後、学園職員以外に、かろの「二次避難」を手助けできた人はわずかだった。住民は各自の判断で海洋センターではなく、別の高台に避難していた。

 千葉愛子さん(81)は地元で民宿を営んでいた。日帰り客を見送った後、山田湾を見ていると、2メートルほどの津波が陸に押し寄せた。「危ない!」。声に振り向くと、背後の船越湾側から壁のような津波が迫っていた。

 サンダルのまま近くの高台に登った。船越湾から来た津波が山田湾の津波と衝突し「ドーン」と巨大な波柱が立つのを見た。直後、集落は濁流に沈んだ。

 千葉さんが避難した高台には、住民30人前後が身を寄せた。集落から海洋センターに向かうには、海沿いの道路を通る必要がある。住民の一人は「津波が怖くてセンターに行けなかった」と話す。

 施設と住民は避難の動線が分かれた。

 自分の身を守るために逃げる「津波てんでんこ」。震災後、避難の大原則として全国に知られるようになった。

 自力で避難できない人はどう助けたらいいのか。「てんでんこ」は全ての人々への答えにはならない。

◎地域の協力不可欠 日ごろから関係構築を/岩手県立大教授(建築計画学)・狩野徹さん

 東日本大震災の津波で人的被災が出た福祉施設は、行政の津波ハザードマップや過去の津波体験を頼りに立地していたところが多かった。施設側に「ここは大丈夫」との思いもあっただろう。想定を超える津波で避難できなかった関係者の無念さは計り知れない。

 福祉施設の職員と利用者との比率はおよそ「1対3」。自力で避難できない利用者3人を職員1人で避難させなければならない計算だ。

 寝たきりや認知症の利用者に対してはもっと人手がいる。シーサイドかろのように「1人を高台に避難させ、再び施設に戻って次の人」では時間のロスも、津波の危険性も大きい。

 立地上、避難路の整備が難しい施設は、地域住民に避難を協力してもらえる関係を築いておくべきだ。同じ避難ルートをたどる住民なら、車いす1台を押してもらったり、お年寄りの手を引いてもらったりすることができる。

 住民の安全のため、協力は津波到達まで余裕がある時でいい。高台に誘導したら下に戻らないということも決めておいてほしい。限られた時間の中、地域の協力で1人でも多く助けることができれば「全員を助けたい」という施設側の強い思いに少しでも応えることにつながる。

 福祉施設は震災時に、避難所生活で特別な配慮を必要とする人たちを受け入れる「福祉避難所」として頼りにされた。地域と施設の連携の機運は高まっている。

 施設側も日ごろから、地域のお年寄りの相談に乗ってはどうか。地域住民の非常食を備蓄したり、非常用電源の提供を約束したりしておくと、災害時に地域の協力を受けやすいだろう。

[英訳] http://www.kahoku.co.jp/special/spe1151/20141207_04.html