東日本大震災は平日の日中に発生し、児童、生徒の多くは学校で被災した。特に沿岸部の学校は津波が近づく中、教職員、保護者、地域住民がぎりぎりの決断を迫られた。子どもたちの安全を確保するにはどうしたらいいのか。震災が残した教訓と備えの課題を探る。(「いのちと地域を守る」取材班)

◎まず高台、さらに上へ

 強い地震が来たら、いったん校庭で点呼を取った後、避難する−。東日本大震災の激震は、こんな学校の津波避難の常識を覆した。震災後、教育現場は初動の見直しを迫られた。

 2011年3月11日午後2時46分。海から300メートルの低地にある宮城県南三陸町の戸倉小を大きな揺れが襲った。

 当時校長だった麻生川敦さん(55)は1階の職員室でしゃがみこんだ。校庭で児童たちが遊んでいたはずだ。窓越しに、教員が慌てて児童に駆け寄る姿が見えた。長い揺れに困惑しながら、避難経路を頭に巡らせた。

 地震津波の避難マニュアルは、校舎から最も遠く、落下物の恐れがない校庭南端のカシの木の所に一次避難し、点呼の後、約400メートル先の通称「宇津野高台」に逃げる段取りだった。

 地震発生から5分近くたっているように感じた。「最悪3分で津波は来る」。専門家から聞いた話が頭をよぎる。全児童がカシの木まで移動するのにかかる時間は5分ほど。麻生川さんは「もう時間がない」と思った。

 揺れが収まった。「すぐ高台だ。一次避難は省略する!」

 教頭が各教室に伝える。児童は昇降口から上履きのまま飛び出し、校舎の玄関前で担任が、遅れた子がいないか、顔触れを確認した。

 「大津波警報が発令されました」。教頭の持つ携帯ラジオが告げた。「逃げろ!」「走れ!」。低学年から次々と走りだした。

 先頭を行く1年担任の斉藤早苗さん(53)が振り返ると、大きな揺れでぐずっていた女の子も黙々と避難していた。3~6年生と、放課後に校庭に残っていた1、2年生の計91人が、午後3時前に高台に着いた。

 約30分後、津波は校庭に流れ込んだ。勢いは衰えず、高台に迫る。麻生川さんは急きょ、高台の上にある五十鈴神社への「二度逃げ」を命じた。

 急な階段を、子どもと教員は駆け上がった。しんがりの麻生川さんが登り切った時、激流が高台をのみ込んだ。3階建ての校舎は既に、濁流に消えていた。

 一次避難の省略と二度逃げの判断は、本震2日前に起きた前震の経験が生かされた。

 その日は、校庭に集合して点呼を取り、ラジオで津波注意報を聞いて高台に走った。麻生川さんは「浸水の恐れがある所にとどまって大丈夫か」と疑問を感じた。

 以前から、校舎屋上への避難も検討していた。そこに、斉藤さんが神社に逃げられる高台避難を訴えた。戸倉小の勤務経験が長く、1960年のチリ地震津波の被害を知っていたからだ。

 学校では帰宅していた児童1人、非常勤講師1人が犠牲になった。

 自然災害に向き合うマニュアルに100%安全なものはない。命を守るため「より早く、より高く」という思いが、想定を超えた答えを導き出した。

◎大川小の教訓重く/南海トラフ、避難見直し

 限られた時間で、子どもを安全な場所にどう逃がすか。南海トラフ巨大地震で大きな被害が予想される高知県や愛知県の教育現場は、東日本大震災の教訓を踏まえ、校庭での点呼を省くなど避難時間の短縮を模索する。

 「日本一の津波が押し寄せる学校」。高知県黒潮町の佐賀小(児童121人)は、地元の教育関係者の間で危機感を込めて、こう呼ばれる。標高6.1メートル、海までの距離は約700メートルだ。

 国の有識者会議が2012年8月に出した南海トラフ巨大地震の被害想定では、佐賀小付近の津波高は最大で34.4メートル。短ければ10分で1メートルの津波が来ると予想される。

 震災後、避難ルールを大きく変えた。校舎内で地震が起きた場合、クラスごとに安否を確かめ、裏山(標高60メートル)を駆け上がる。以前は校庭に集合して点呼を取り、海寄りの公園(同20メートル)に逃げる手はずだった。

 黒潮町によると、南海トラフ巨大地震では佐賀小、南郷小など小中学校6校で浸水の恐れがある。震災後、いずれも校庭での点呼を取りやめた。

 見直しのきっかけの一つは、石巻市大川小の津波被害だった。地震発生から津波の到達まで50分近くあったとみられるが、いったん校庭に集まった後、避難の決断が遅れ、児童・教職員計84人と多数の住民が犠牲になった。現在、第三者の有識者による事故検証委員会が、原因究明に取り組んでいる。

 佐賀小の西岡公子校長は「『津波は来ない』という意識が強く、高い場所に早く避難するという考えに至らなかったのではないか。想定にとらわれてはいけないという、大川小の教訓はとても重い」と語る。

 高知県同様、津波の脅威にさらされる愛知県沿岸部の田原市。堀切小(児童113人)の石井幹男教頭も「大川小とは規模が似ていて、ひとごととは思えなかった」と言う。同校は震災のわずか1カ月後、避難場所の見直しに着手した。

 校舎は、渥美半島の先端、海から約700メートルの集落に立地する。標高は5メートルしかなく、南海トラフ巨大地震では、30分~35分で最大15メートルの津波が来ると予測される。

 従来の避難場所は校舎3階だったが、1.3キロ離れた高台(標高28メートル)に避難する計画に変更。専門家の助言で、避難完了の目標を「地震発生から15分以内」と定めた。

 校庭で点呼は取らず、避難時は教員が自転車で先導し、避難路の安全を確認。避難と並行して、教頭が校舎内に残された子どもがいないか見回る。地割れやブロック塀の崩落などで通れない場合、すぐに別の経路に切り替える。

 週3回の持久走トレーニングや走りやすい上履きの導入で、全児童が15分以内に避難できるようになった。石井教頭は「震災では揺れが数分続いたと聞く。避難中も余震で足が止まるかもしれない。1分も無駄にできない」と気を引き締める。

[英訳] http://www.kahoku.co.jp/special/spe1151/20150108_10.html