東日本大震災では、本来は人の命を守るための取り組みや施設が、逆に避難行動を鈍らせ、犠牲を招いたケースがあった。備えはどうして、生かされなかったのか。防災・減災対策に潜む落とし穴を探る。(「いのちと地域を守る」取材班)

◎「大丈夫」訓練があだ

 本震の後、釜石市鵜住居地区防災センターには多くの住民が逃げ込み、津波で100人以上が犠牲になった。安全と信じて避難した施設。そこに、安全はなかった。

 「防災センターへ避難してください」

 釜石市の介護福祉士柿野祥子さん(43)が自宅にいると、屋外から呼び掛ける人の声が聞こえた。岩手県大槌町のショッピングセンターで地震に遭い、車で10分かけて防災センター近くの自宅に戻った直後だった。

 外出先から帰宅した父幸喜さん=当時(64)=と一緒に、徒歩数分のセンターに向かう。センターは鉄筋コンクリート2階建て。震災前年の2010年2月に開所したばかりの真新しい施設だ。

 センターのある鵜住居地区中心部は平たんな住宅地で、高さはない。祥子さんは一瞬、「ここでいいのか」と思った。「避難所だから大丈夫」と幸喜さんに言われ、施設に入った。

 父の言葉には理由があった。10年2月28日に発生したチリ大地震津波、同年5月23日と震災直前の11年3月3日に実施された津波避難訓練で、多くの住民がセンターに集まった。幸喜さんは3度とも足を運んでいた。

 2階ホールへの階段を上る途中、叫び声が聞こえた。「急げ!」。狭い階段に人が殺到する。祥子さんは訳が分からないまま、後ろから押されるように2階に駆け上がった。そして窓越しに、異様な光景を見た。家々が流れていた。

 次の瞬間、窓ガラスが破れ、黒い水が室内に一気に流れ込んだ。ごう音とともに水は2階天井近くまで達した。「死んでいられない」。水中に引き込まれた祥子さんは懸命にもがき、踏ん張った。何かに足が届いた。

 気付いたら水面に出て、息ができた。浮き上がってきたステージの平台につかまり、第2波の濁流も何とか耐えた。

 やがて水は引いた。床には30センチ近い泥と、たくさんの遺体。助かった人たちは2階奥の備蓄倉庫に集まり、残った毛布で寒さをしのいだ。街は水没し、海のような風景が広がっていた。

 2日後の13日、自衛隊に救助された。一緒だった幸喜さんはセンター2階で亡くなっていた。

 鵜住居地区の「避難場所」は本来、山際の高台にある常楽寺裏山と鵜住神社だった。センターは津波が収まった後に身を寄せる「避難所」だと、市は説明する。

 「『避難所』『避難場所』の区別が強調されたのは震災後だ」と指摘するのは、防災センター遺族連絡会の三浦芳男会長(67)だ。「訓練が、センターなら大丈夫という誤った認識を多くの住民に植え付けた」

 連絡会と市の調査(4月1日現在)では、センターでの生存者は34人。死者、行方不明者は少なくとも128人。近隣住民ら避難した可能性が否定できない犠牲者を含めると210人と推定される。

◎安心感、名称が誘発/避難場所の周知不徹底

 釜石市鵜住居地区防災センターにあるべき「備え」を狂わせた要因は何だったのか。平たんな中心市街地に、防災拠点を整備した経緯にも、その一端がうかがえる。

 市中心部にあった釜石市民病院が2007年、市西部の岩手県立釜石病院に統合、廃止された。市北東部の鵜住居地区では「救急病院が遠くなる」と危機感が広がった。

 市は救急体制の充実を求める鵜住居地区の要望に応えた。老朽化した市出張所などの建て替えに合わせ、釜石消防署鵜住居出張所を加えた複合施設を建設。名称を「鵜住居地区防災センター」とした。

 2階ホールは「避難室」と命名。炊き出し用調理室、備蓄倉庫を備え、防災機能の充実をうたった。行政窓口、公民館機能も集約し、地域の頼れる存在となった。

 センターで九死に一生を得た柿野祥子さん(43)は「センターには安心感があった」と言う。

 トイレもある。暖も取れる。人が集まってくれば、落ち着く。「寒い屋外の常楽寺裏山に逃げるよりは良さそうだ、という気持ちが働いた。たまたま、近くに便利な施設ができたことが、変な期待を生んでしまった」

 対照的に常楽寺裏山、鵜住神社は本来の避難場所としての存在感が薄らいだ。市や住民らによると、かつては町内会の避難訓練を開いても、参加者が少なかったという。地域にはお年寄りが多い。常楽寺裏山や鵜住神社への長い距離を移動するのは一苦労だった。

 町内会は参加者を増やそうと、防災センターを「仮の避難場所」として訓練することを市に申し出た。市は、津波の際は常楽寺裏山、鵜住神社に避難することを条件に認めたという。

 「仮の避難場所」の事情は住民に十分周知されていなかった。市は「チリ大地震津波でセンターに住民が避難した時点で、センターの役割や避難場所を周知徹底するべきだった」と対応の甘さを認めている。

 習慣に救われた住民もいる。常楽寺近くに自宅があった北上市の主婦小林庸子さん(75)は地震発生時、センターのパソコン教室に参加していた。揺れが収まると、小林さんは、避難してくる住民とは逆にセンターを出て、寺に向かった。

 鵜住居地区では当時、班ごとに避難場所を定めていた。小林さんが所属していた班は防災センター開所後も常楽寺だった。寺には約60人が避難し、難を逃れた。

 小林さんは「私にとって避難場所は常楽寺という認識しかなかった」と話す。地震直後の緊迫した状況では考える余裕がない。だから、平時から安全な避難場所を意識することが大事。そう感じている。

 高台ではない建設場所、安心感を誘発する「防災センター」という名称−。市の判断に誤りはなかったのか。外部専門家による調査委員会委員長の斎藤徳美岩手大名誉教授は「津波に対する市の危機管理体制が当時、十分機能していなかった疑いがある。行政、住民の間で認識のずれもあった」と指摘する。調査委は今夏にも、再発防止の提言をまとめる。

[英訳] http://www.kahoku.co.jp/special/spe1151/20150207_04.html