◎高橋信さん(大船渡市)から俊一さんへ

■あのとき何が
 大船渡市の会社員高橋信さん(32)は東日本大震災で父俊一さん=当時(60)=を亡くした。陸前高田市にある大船渡署高田幹部交番の所長だった俊一さんは、住民の避難誘導に当たる部下を指示していたさなか、津波にのまれた。定年で退職する4日前だった。

 2010年春に俊一さんが異動で盛岡市から大船渡市の実家に戻り、自分も11年4月、地域紙発行の「東海新報社」(大船渡市)に入社する。親子で新しい暮らしが始まろうとしていた。

 震災直後、俊一さんの部屋で、枕元に積み上がった軽乗用車のカタログを見つけた。あちらこちらに付箋が貼ってあった。

 「新聞記者に車は不可欠。全部お父さんに任せろ」「道が狭い大船渡は軽乗用車が一番だ」「おまえのために毎晩車の研究をしている」。車好きだった俊一さんから届くメールを思い出して涙が止まらなかった。

 「とにかく優しいおやじだった。警察の務めかもしれないが、何で逃げなかったのか。でも、部下の人たちが亡くなった。生き残った方がつらかったと思う」。複雑な思いは今も変わらない。

 震災のただ中で東海新報社の一員となり、入社初日から避難所で炊き出しに奮闘する市民の記事を書いた。俊一さんの遺体が見つかったのは4月8日。取材で訪れた大船渡署で告げられた。

 必死で被災地の歩みを伝える新米記者に、住民が「東海さん」と声を掛けてくれた。「くじけない人々に励まされることも多い。この会社の記者になって自分も救われた」と振り返る。

 18年8月の月命日、震災犠牲者の遺族の思いを伝える記事を初めて担当した。訪ねたのは、俊一さんの部下の両親だった。「息子を思い起こすときも、今は悲しみだけではなくなってきた」という言葉が心に響いた。

 「新聞記者になってくれてうれしい。すごい大変な仕事だと思うが、おまえのできる限りの力で頑張れ。両親はいつも応援している」

 11年3月10日の夜、俊一さんから送られた最後のメールを胸に刻む。「震災としっかりと向き合い、記者として何ができるかを考えるのが使命。俺はここで頑張っているよ」

 山積みのカタログから俊一さんが「第1候補」に選んでくれた軽乗用車は頼もしい相棒だ。記者になって8年8カ月。走行距離は21万キロを超えた。(大船渡支局・坂井直人)