◎岡田恭一さん(福島県双葉町)から信さん、京子さんへ


■あのとき何が

 東京電力福島第1原発事故で福島県双葉町から神奈川県伊勢原市に避難する建築業岡田恭一さん(64)は、東日本大震災で父の信さん=当時(78)=と母の京子さん=同(74)=を亡くした。2人は恭一さん夫妻、孫2人と同居していた同町中浜の自宅にいて、津波にのまれたとみられる。

 地元の建設会社を手伝い、第1原発の原子炉建屋で仕事中に地震が起きた。町に戻り「自宅がなくなった」と聞いても自分の目で見るまで信じられなかった。

 避難所に両親が見当たらない。消防団の仲間と翌朝から捜索を準備するが、早朝の避難指示で町を離れざるを得なくなる。親族を頼り、福島市や東京都、神奈川県と転々。1カ月以上がたって始まった捜索で、すぐに京子さんが見つかった。信さんは約3カ月後、DNA鑑定で死亡が確認された。

 「逃げるように避難し、遠い地で知らせを待つのはつらかった。どこかにまだいるのではないか。そんな思いが頭を離れなかった」

 大工の信さんは農業も営んだ。厳しいが、おおらか。子どもの気持ちを理解し、孫たちにも優しかった。恭一さんが稲作を引き継ぐと「1日1回は田んぼを見回れ」と心構えを説いた。

 京子さんは話し好き。町内の精肉店に勤め、井戸端会議の中心にいた。「忘れ物はないか。けがをしないように」。あの日も、出勤する恭一さんにいつものように声を掛けた。

 恭一さんも本業は大工。神奈川県で入居した借り上げ住宅の管理を担う会社に誘われ、避難後間もなく公営住宅などの修繕の仕事を始める。妻の悦子さん(58)、三男(33)も仕事を覚え、今は共に現場を回る。

 全町避難が続く中、伊勢原市で建売住宅を求め、都会暮らしにようやく慣れた。だが、定住するかは「まだ分からない」。「町には両親の思い出があるし、捜索もできなかった。気持ちは残ったまま」。地区の盆踊りや町民運動会で住民が熱く盛り上がる光景を懐かしく思い出す。

 町では3月4日、中浜地区を含む一部で避難指示が初めて解除されるが、自宅跡の一帯は防災緑地の予定地。戻れる土地ももうない。

 周辺では町が産業団地を整備し、県が復興祈念公園の工事に着手し、様変わりしつつある。「復興はいいこと。ただ、ここに人々の暮らしがあったことは知ってほしい」と願う。

 町が同11日にいわき市で営む追悼式に、今年も夫婦で参列する。「もっと親孝行をして、自分もしてもらったように何でもさせてあげたかった」。かなわぬ思いを胸に、手を合わせる。
(いわき支局・佐藤崇)