赤や黄の葉っぱを舞わせる風が、いやすこネタを運んできた。「あれは食べた?」「あの店に行った?」と、あっちとこっちから、しかも同じ店だ。うーん、まだ行ってないし食べてない、と2人は早速バスに乗ってその店に向かうことに。

 降りたのは国見1丁目バス停(仙台市青葉区)。どっちの方向だろうか迷いながら、一緒に降りた女性に尋ねると「あっ、子平堂さんね、そこを曲がって…」と笑顔の即答が返ってくる。ふと見ると、曲がり角には手書きの「→子平堂」の貼り紙が。なんだかあったかい気持ちになってくる。

 白い仕事着で迎えてくれたのは、子平堂2代目の村上瀧雄(たきお)さん。中学生の時からあんこ練りを手伝っていたという村上さんは、御年81歳だ。看板の「子平まんじゅう」はお父さんが作ったそうだが、そこにはこんなエピソードがあった。

 近くに龍雲院というお寺があるが、そこは社会科の教科書にも載っていた「海国兵談」などの著作で知られる林子平の菩提(ぼだい)寺。和尚さんと村上さんのおじいさんは仲が良く「子平にちなんだまんじゅうを作っては」という話になった。その時すでに和菓子屋だったお父さんが作り上げたのが、この商品というわけだ。

 店内には「第2回東北振興菓子審査会 壱等賞金牌(いっとうしょうきんぱい)」の表彰状があり、昭和13(1938)年と書かれている。その時からずーっと食べられてきた子平まんじゅう。ショーケースに積まれたまんじゅうを改めて見ると、丸ではなく小判形で皮がピッカピカで食欲を誘われることしきり。そこをぐっとガマンして、店の奥で作り方を見せてもらう。

 「昔から作り方は変わりません。他のお店さんとも同じだと思うんですが」と控えめな村上さん。黒砂糖を溶かし、重曹、小麦粉を入れてこねて作った生地を、ピンポン球くらいにして手に載せ、前日に煮ておいたあんこをくるんと包む。と、手のひらの中で瞬く間に小判形に。それを蒸し器で10分ほど蒸すと出来上がりだ。

 朝6時半に起きて1日1000個ほど作る。40~50代の頃に一度、自動包餡機(ほうあんき)という1時間に1000個も作る機械を使ったことがあったそうだが、すぐやめた。

 「手作りだからあんこがはみ出てることもあるんだよね」と笑う。そこにお客さんが「10個お願いします」とやってきた。ご近所の方で、「子平まんじゅうはあったかさがあるの。ご夫婦の心意気が伝わるっていうか」と話す。午前10時ごろの出来たてほかほかは格別だそう。帰るお客さんに「そこ、段こあるから気を付けてね」と村上さん。

 入り口近くのテーブルに、国見小2年生の町たんけんのお礼の手紙があった。「ぼくもおまんじゅうやさんにしょうらいなりたいです」の文面に、またまたほんわか気分だ。

 帰りは龍雲院へ。林子平の墓近くのあずまやで子平まんじゅうをいただく。「あ~ぁ、しみじみおいしいね」「あんこもいいし、皮もおいしい」。食べていたら、穏やかな村上さんの顔が浮かんできた。あれ!?そういえば昭和13年からといえば81年目。村上さんも子平まんじゅうも同じ年なんだ。

◎幕末に国防の重要性説く

 林子平(1738~93年)は、北は松前(北海道)から南は長崎まで遊学し、江戸時代後期に国防の重要性を説いた人。日本に隣接する朝鮮、琉球(沖縄)、蝦夷地(北海道など)を含めた地域の軍事地理書「三国通覧図説」や、従来の兵書が国内戦を対象としたのに対し、対外的防備の急務を説いた「海国兵談」を著した。江戸末期、対外的関係が危機化していく時代にあって、これを予見したのは林子平が最初だったといわれる。

 海国兵談では出版に協力してくれる版元も見つからず、16巻の大書の版木を自ら彫り自費出版したものの、幕府から発禁処分、版木没収の処分を受ける。「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無ければ死にたくも無し」の言葉はよく知られる。

 蟄居(ちっきょ)を命じられ56歳で病死。常に真摯(しんし)率直で、寛政の三奇人(奇人は優れた人の意)の一人と言われた。青葉区子平町の龍雲院にある林子平の墓は国指定史跡。毎年7月20日に林子平祭りが行われ、子平まんじゅうも売られる。

 土地には、その土地ならではの食があります。自他共に認める「いやすこ(仙台弁で食いしん坊のこと)」コンビ、仙台市在住のコピーライター(愛称「みい」)とイラストレーター(愛称「画伯」)が、仙台の食を求めて東へ、西へ。歩いて出合ったおいしい話をお届けします。