あぁ、なんて香ばしいんだろう。エアシャワー室を出た途端、いやすこは思わず鼻を膨らませてしまう。

 ここは若林区鶴代町にある「こだまのどら焼本舗」本店。こどもの日が近いある日、ちっちゃい頃から好きだった餅(求肥)入りどら焼きを目指した2人。着いて早々、元気な笑顔で迎えてくれた販売部エリアマネジャーの元木由紀子さん(35)に案内されて工場へ。衛生服を着て、エアシャワーの洗礼を受け、どら焼き作り見学へと踏み出したわけである。

 広い工場の中はどら焼き作りの真っ最中。案内の方に付いて生地作りが行われている一番奥へ。大きな機械で卵が撹拌(かくはん)されているが、よく見ると撹拌器の下にお湯の入った大きなボール。「起泡力を高めるための湯せんです。機械はあくまで多く作るための道具なんです」と説明してくれる。生地作り担当の職人さんは40年以上のベテランだそう。濾(こ)したり、小麦粉や蜂蜜などを入れて大きなおたまで混ぜたり、熟練の腕のリズミカルでパワフルなこと!そして、工程は「焼き」に進み、ここでもベテランが技を見せる。「寒いと生地も縮まるし、機械も縮まるんです。一年中同じ商品にできるように調整しています」と話してくれる。

 生地を注ぎ、どら焼きの皮が焼かれていく。焼く機械は焼成機といい、焼く時にふたで閉じ、また、皮を返すのも返しベラを使わずに空気を当てて剥がして裏返す。「全ては皮のふんわり感のためで、父と私で考えました」。そう聞いて初めて、案内してくれている人が「こだまのどら焼本舗」3代目で代表取締役の児玉康さん(44)と知る。ぼんやりのいやすこで、すみません。

 皮が焼けたところに餅、あんこ、皮がのせられていく。餅を真ん中に置いていくのも職人さんの手。最後に人による目視検品、包装へ。一つ一つ感激しっぱなしで見入ってきた2人が振り向けば、ラインはまっすぐ1本。ベテランから、職人さんの手から手へ美しく流れ、最終工程には今年入社した18歳の新人がいる。こだまのどら焼きはこうして作られ、受け継がれてきたのだ。今どきの言葉を使うならワンライン・ワンチームだ。

 事務所で改めて創業の話を伺う。戦前、タクシーの運転手だった児玉さんのおじいさんが、昭和24年に生活物資を扱う商店を開き、さらに厳しい時代の中、「人々を笑顔にしたい」と和菓子作りを近所の職人さんに教えてもらって始まる。そして1年後、職人さんが残った餅をどら焼きに入れたことから、日本初の餅入りどら焼き「こだまのどら焼」誕生となったという。

 いよいよ、いただくと、手にした途端のふかふか感。口に入れれば、ふんわりの中の粒々過ぎずなめらか過ぎずのあんこ、餅のかみごたえ。「なんて一体感があるんだろう」

 児玉さんは、70年の歴史で変わっていくものと変わらないものがあると言っていたが、人々を笑顔にしたいという創業の思いが届く仙台の名物。買い求めたその足で知人に届けると、「ちょうど食べたいと思ってたの」と大喜びされる。紛れもなく仙台のソウルスイーツだ。

◎おぼえがき/名前の由来は銅鑼が有力

 やや膨らんだ円盤状のカステラ風生地2枚に、小豆あんを挟み込んだ和菓子、どら焼き。名前の由来は打楽器の銅鑼(どら)に似ていることから付いたという説が有力だ。

 起源についても諸説あり、その中の一つには、源義経が兄・頼朝に追われて奥州に逃れる道中、弁慶が民家でけがの手当てをしてもらったお礼にと、銅鑼で生地を焼き、あんこを包んだ菓子を作ったという話もある。

 どら焼きの原型を探ると江戸時代初期の助惣焼(すけそうやき)にたどり着くともいわれるが、その形状はかなり異なり、現在のようなどら焼きが誕生したのは、大正時代に入ってからとされる。

 近畿地方ではどら焼きを「三笠」「三笠山」と呼ぶことが多いが、これは奈良県の三笠山に形が似ているところからきたようだ。

 ちなみに求肥とは、餅粉または白玉粉に砂糖や水飴(あめ)を加えて練り上げたもの。「こだまのどら焼」の餅は、餅粉で作られた求肥。もち米を原料とする点では餅と同じである。

 土地には、その土地ならではの食があります。自他共に認める「いやすこ(仙台弁で食いしん坊のこと)」コンビ、仙台市在住のコピーライター(愛称「みい」)とイラストレーター(愛称「画伯」)が、仙台の食を求めて東へ、西へ。歩いて出合ったおいしい話をお届けします。