東日本大震災の発生から約1カ月後の2011年4月14日、首相官邸4階の大会議室で政府の復興構想会議の初会合が開かれた。民主党政権が発足させた会議は初回から荒れに荒れた。

 冒頭、議長の神戸大名誉教授五百旗頭(いおきべ)真(76)が「原発事故は会議の任務から外す」と政権からの指示を伝えると、複数の委員が立ち上がって机を叩き、泣きだした。特別顧問を務めた哲学者梅原猛(故人)に至っては「原発の問題を議論しなかったら、この会議は意味ない」とすごみを利かせた。

 委員に召集されたのは岩手、宮城、福島3県の知事に加え、梅原ら著名人を含む16人。民主党議員からの推薦で膨らみ、下部の検討部会にも19人いた。

 東京電力福島第1原発事故の収束が見えない中、会議は未曽有の国難に臨む異様な熱気をはらんでいた。

 事前の根回しはなかった。議長代理を務めた東大教授の御厨貴(69)は14日の日記につづった。

 「うまくいくとは到底思えない。(中略)思い出してもぞっとする。学者休止の決意をせねば、この3カ月は乗り切れないだろう」

 6434人が犠牲になった阪神大震災を経ても、日本には復興に特化した法律が存在していなかった。

 しかも09年に誕生した民主党政権は翌10年の参院選で惨敗し、「ねじれ現象」に。政界は震災や事故対応を巡り、首相の菅直人(73)に辞任を求める動きが勢いを増していた。

 会議に先立つ10日、自公との大連立が不発に終わった菅から五百旗頭は官邸に呼ばれ、ひそかに打診された。「野党がつむじを曲げたら何も決まらない。協調体制をつくれないか」

 政治と一線を画しつつ、五百旗頭は12日に自民党総裁の谷垣禎一(75)と都内のホテルで、14日に公明党代表の山口那津男(68)と料亭で会った。「復興は協力する」と言質を得たが、谷垣から「政治は甘くない。政争はちゃんとやる」と告げられた。

 谷垣の宣言通り、自公は6月1日、菅に内閣不信任決議案を出した。民主党も小沢一郎(78)らが造反を図る。翌2日、菅は震災対応にめどが付いた段階で首相を辞める、と表明した。

 政治的なリーダーシップも、逆に介入もない。構想会議は「政治空白」の中を進んだ。

 産業、福祉、エネルギー。非公開の構想会議は毎週土曜、5時間に及び、百家争鳴の様相に。御厨は「委員が持論を出し合うだけでばらばら。会議が瓦解(がかい)する」と焦りを募らせていた。

 大型連休を挟み、事務局の一人が「復興の原則をまとめてはどうか」とアイデアを出した。御厨らは大急ぎでこれまでの意見を基に七つの原則をまとめた。いわば復興の「憲法」だ。

 「追悼と鎮魂」

 「地域主体の復興」

 「原発被災地への配慮」

 5月10日の第4回会合で決まり、新聞に「7原則決定」の見出しが躍った。

 「これで会議の雰囲気が変わった」と御厨。原則を提案し、力を発揮しはじめたのが官僚だった。

◎官僚フル回転、底力発揮

 霞が関に近い東京都港区の三会堂ビルは、2016年5月まで復興庁が置かれた場所だ。政府の復興構想会議の事務局は11年5月初め、内閣府からビル6階に引っ越した。

 事務方は当初、省庁の政策調整に当たる内閣官房副長官補室中心の9人。検討部会を含めた構想会議メンバー35人より、大幅に少なかった。民主党政権が「政治主導」を掲げていたため、非常時にもかかわらず官僚は排除されていた。

 検討部会長に指名された政策研究大学院大教授の飯尾潤(58)は、この状況に責任を感じていた。

 政治学者で官僚機構に精通し、政権交代を推し進めた一人でもある。「民主党は政治主導に拘泥し、物を決められずにいた。政策を知る官僚をつなげなければ復興はうまくいくまい」

 議長の五百旗頭真が首相の菅直人に直談判。事務局には、大型連休明けから40代前後の参事官クラスが送り込まれて約50人に増員、最終的に約100人に達した。

 提言づくりに向けた各省庁へのヒアリングで、飯尾はがくぜんとする。

 提案は小粒で様子見の姿勢があらわだった。厚生労働省は「薬品のインターネット販売を東北だけに認めてはどうか」と当時の課題を一部転用したにすぎなかった。

 飯尾は増員した官僚に「これでは駄目だ」とハッパをかける。5月中旬からは部会とは別に、省庁にまたがるテーマの非公開会議を16回開き、膨大な政策の論点を詰めた。構想会議や検討部会の委員も招いて「委員も官僚も同じ立場」と熟議の下地づくりに心を砕いた。

 「農林水産省と国土交通省は互いの土地利用事業を上乗せできる」「農水省の6次産業化に経済産業省も参加できる」。省庁をフルに使い、具体的な復興政策が次々と浮かび上がった。

 6月25日に発表した構想会議の提言も、飯尾が各省庁の案文をまとめた。提言に沿った形で7月29日に政府の復興基本方針が決定され、秋の第3次補正予算でほぼ全てが政策になったことを、後に飯尾は知る。

 「政策から遮断されていた役人に仕事をさせ、混迷をまとめ上げた」。財務省出身の内閣審議官として事務局に入り、「原則」を提案した佐藤慎一(63)は司令塔の飯尾に感謝する。

 議長代理の御厨貴も「脱官僚政治の中、構想会議は政治と官僚をアメーバのように結ぶ共同体だった」と評する。

 一方、御厨は現状に厳しい目を向ける。復興政策が他の土木建築事業と同様、ルーティンワーク化している。あの頃の知恵も熱気も感じられない。

 今年6月、自民党政権は復興庁の設置期限を2030年度まで10年延ばした。

 「もう一度、原点に立ち返り、東北をどう変えていくか、復興の形を捉え直さなければならない」。御厨はそう警告する。(敬称略)

[復興構想会議]東日本大震災の発生1カ月後の2011年4月11日に設置を閣議決定。メンバーは2段構成で、親会議には岩手、宮城、福島各県知事に加え、脚本家の内館牧子氏、福島県立博物館長の赤坂憲雄氏、哲学者の梅原猛氏(故人)ら著名人を含む16人が名を連ねた。産業経済や都市計画の専門家ら19人の「検討部会」も設けた。親会議12回、検討部会8回の議論を経て6月25日、政府に「復興への提言~悲惨のなかの希望~」を提出。本論は「新しい地域のかたち」「くらしとしごとの再生」「原子力災害からの復興に向けて」「開かれた復興」の4章で構成する。