東日本大震災からの復興は、震災直後に設置された政府の復興構想会議の提言が起点となった。議長で神戸大名誉教授の五百旗頭真、議長代理で東大名誉教授の御厨貴、検討部会長で政策研究大学院大教授の飯尾潤の3氏に、構想会議が打ち出した「創造的復興」の意義や被災地の課題を聞いた。
(聞き手は報道部・高橋鉄男、坂井直人)

◎高台移転集中、想像せず/神戸大名誉教授・五百旗頭真氏

 -御厨、飯尾両氏と合わせた政治学者トリオは「3人会」と呼ばれた。

 「議長を引き受けたとき、既に構想会議のメンバーが決まっていたのが遺憾だった。追加できると聞き、阪神大震災時に設置された政府の復興委員会に詳しい御厨氏と行政に通じた飯尾氏を推した」

 -構想会議では、当初から復興増税に前向きだった。

 「国が巨額の財政赤字に陥る中、これ以上、負債を抱えれば国際的に不信任を突き付けられる恐れがあった。どこでも災害は起き得る。国民全体が支える体制をつくる必要があった。増税は日本の災害史上初めてだ」

 「南海トラフ巨大地震が発生した場合、被災範囲が広すぎて全額国費負担は不可能だろう。今回の震災が一番思い切った復興がやれたと、後々言われるかもしれない」

 -創造的復興の評価は。

 「三陸沿岸道が延長したり、気仙沼市の大島に橋が架かったりと隔世の感がある。津波常襲地の三陸が、復興事業で災害に強靱(きょうじん)さを持った新しいまちになったのが非常に感動的だ」

 「一方、新産業創出は非常に難しかった。新型コロナウイルスの感染拡大がなければ観光業も悪くはなかったと思う。ただ観光をベースとする交流人口政策は有事にはもろい」

 -ハード事業と避難などのソフト対策を組み合わせた「多重防御」による減災のまちづくりを提言した。

 「多重防御を基本に高台移転を併用するイメージだった。これほど高台移転ばかりになるとは想像していなかった」

 「目下の新型コロナ禍に加え、首都直下型地震も想定される。東京一極集中は早期に是正すべきだ。復興事業で生じた空き地に、水産関連の研究機関を移転したり、空き住宅を活用して(首都直下型地震の)被災者を受け入れるなど検討してはどうか」

 -被災地の復興は、日本再生のモデルになったか。

 「再生可能エネルギー、(医療や介護、福祉を一体的に提供する)地域包括ケアなどで社会をリードできればと考えたが、十分ではなかった。特区の提案もあまりなかった」

 -来年度から「第2期復興・創生期間」に入る。

 「この10年の復興支援は非常に手厚くやってきた。福島はまだやるべきことが多いものの、被災自治体は今後、他地域と同じ土俵で直面する課題に立ち向かわなければならない。強い覚悟と構想力が問われる」

◎縮小モデル、実現できず/東大名誉教授・御厨貴氏

 -東日本大震災を分岐点に戦後が終わり「災後」が始まると指摘していた。

 「テレビに大災害が映し出され、東京も停電で『暗い日本』を経験した。震災が戦時体験と同じように国民の共通体験になり、日本が変わると思えた」

 「戦後の発展モデルの衰退を直視しないわけにいかない。被災した過疎地の東北が、日本の縮小均衡モデルの最先端になると考えるようになった」

 -構想会議で議長代理を務めた。

 「ずっと聞き役、内部の調整役だった。委員は使命感が強く、意見が相違して喧噪(けんそう)が渦巻いた。民主党政権が官僚排除をうたっていたので、裏に回って自ら説得するしかない。休憩の時にトイレに同行して『そろそろ妥協しませんか』といった工作は随分した」

 -阪神大震災で政府の復興委員長を務めた下河辺(しもこうべ)淳・元国土事務次官(故人)にインタビューし、その経験を生かした。

 「彼が強調したのは、いかに報道してもらうか。阪神は約2カ月後に地下鉄サリン事件が起きて報道の優先順位が下がり、世の関心が薄れた。これを教訓に、構想会議序盤に『復興7原則』をまとめてマスコミにアピールした」

 -提言に縮小モデルを盛り込めなかった。

 「被災自治体にはとても受け入れられなかった。首長から『縮小なんて言ったら失職する』『夢であっても発展モデルにこだわる』と言われた。ただ震災11年目以降は身を切るような厳しい現実に直面するだろう」

 -果たして「災後」の時代は始まったのか。

 「東日本大震災後も熊本地震や風水害が相次ぎ、平成の世は阪神大震災を起点に『災後』が連鎖してきたと言える。経験を積んで復興が早まった。災後の時代は今も続いている」

◎全額国費、マイナス面も/政策研究大学院大教授・飯尾潤氏

 -9年半の創造的復興の取り組みをどう見るか。

 「高台移転などハード整備だけでなく、不十分な面はあるが、心のケアといった被災者の暮らしの支援にも注力した。何とか町は再建できたものの、一歩進んだ町にはなっていないのではないか」

 「新しいまちづくりに挑戦できればと考えたが被災地にそんなゆとりはなく、一歩前に進める国の政策もそれほどなかった。東京で考えるイノベーション(技術革新)と地元の想像力との間に超えがたいギャップがあった」

 -当初5年間で19兆円と見込んだ復興予算が大きく膨らんだ。

 「具体的な被害状況などが見通せない中、総枠を定めず予算を措置した。『早い者勝ち』で被害の大きい自治体が出遅れ、予算が確保できない事態を避けられた。巨額の財源を確保できたのは、地震で東京もかなり揺れ、被災地の大変さが共感を得られたからだ」

 「全額国費となり、自治体側に『今のうちにやらなければ損だ』という考えがあったことは否定できない。ごくわずかでも地元負担を求めるべきだった。復興期間内に事業費を確保しようと、全額国費以外の事業が後回しにされたものもある」

 -多重防御による「減災」が浸透しなかった。

 「復興交付金のメニューに関連事業はあったが、活用したいと思わせるまでに至らなかった。新たな制度を具体的に検討する時間もなかった。減災を実現するには住民の理解が不可欠。事前に政策準備や職員の人材育成、住民との合意形成を進め、復興のイメージを考えておくべきだ」

 -被災地の復興は、日本再生のモデルになったか。

 「その地にゆかりのない人々が集い、新しいことを始める全国的な先駆けとなった。ただ、もっと目に見える変化が出るかなと思っていた」