東日本大震災の津波で園児8人と職員1人が犠牲になった宮城県山元町の私立ふじ幼稚園。震災から3カ月後の2011年6月、園は隣町の葬祭会館で慰霊式を開いた。遺族や職員らが出席した。

 一人娘のひな乃ちゃん=当時(5)=を亡くした高橋光晴さん(52)は園の依頼で遺族としてあいさつに立った。原稿は亡き子の声に耳を澄ませ、妻のひろみさん(55)と考えた。

 「先生、すっごく怖かったね。お水冷たかったよね。いっぱい、いっぱいがんばったこと知ってる。先生の手をつなぐことはできなかったけど…」

 園は津波を想定しておらず、子どもたちは園庭のバスにいて津波にのまれた。職員は園児を助けようとしたが全員を救えなかった。

 夫妻の言葉は園の教諭にも向けられた。「願わくばご自身の道を生き抜いてほしい」。震災を忘れず、子を守る仕事を続けてもらいたい-。わが子を失いながらも未来の命を思う。そんな言葉を紡いだ背景には、震災以前に経験した深い悲しみがある。

 ひろみさんは流産しやすい体質で、ひな乃ちゃんが生まれる前に2度、男の子との別れを経験している。ともに妊娠5カ月だった。2人が生まれてこなかった事実を受け止められたのは、娘が亡くなってからだった。

 ひな乃ちゃんは周囲を楽しくする名人だった。テレビで面白い格好の人を見ると、まねをして笑わせた。震災後、園の友達から手紙を渡された。「ひなのちゃんへ じしんのとき だいじょうぶって いってくれて どうもありがとう」とあった。

 「お兄ちゃんたちを亡くした時、自分を責め続けた。だけど、何にもならなかった」。ひろみさんは、ひな乃ちゃんの時も自分を責めた。「でも、亡くなった子たちと一緒に生き続けるしかない」。そう思うようになった。

 命のはかなさを身をもって知るひろみさんは、ひな乃ちゃんとの時間を大切にした。みんなを笑顔にしたわが子との輝いた5年が未来を向かせてくれた。

 「先生たちも同じ。自分を責めて仕事を投げ出しても何にもならない。もっと苦しむと思った」

 被災当時からふじ幼稚園の園長を務める鈴木信子さん(62)は、新任で園に入った。子どもの純粋さに引かれ、幼児教育に携わってきた。天職と思っていた仕事は震災で一変した。

 あの日、鈴木さんは仙台市に出張していた。町に戻り、園が孤立していると知った。翌朝、園児が津波にのまれたと聞く。行方不明の園児7人は次々と変わり果てた姿で見つかった。

 「亡くなったお子さんの命は戻せない。明日の朝、自分の目が覚めなければいいのに、と思ったこともある」。鈴木さんが震災直後を思い返す。「遺族の方への対応が遅れてしまった。園の今後は全く考えられなかった」

 思い詰めた鈴木さんの胸に、高橋さん夫妻の言葉が響いた。願わくばご自身の道を生き抜いて-。悲しみや苦しみを背負って歩くには、覚悟と勇気が要る。

 背中を押したのは、夫妻や生き残った園児らの存在だった。