621体。岩手県内で1日で最も多い遺体が安置所に運び込まれた2011年3月15日、岩手医大准教授の熊谷章子さん(50)=盛岡市=は、警察協力歯科医として大槌町にいた。

 身元確認に必要な歯科所見を記録するためだが、作業は難航した。立ちはだかったのが法律の壁だ。

 東日本大震災の津波による大槌町の犠牲者は804人。津波の襲来後、町内では大規模な火災が発生した。安置所に運び込まれた遺体の2割以上が焼損し、口を開ければ遺体が壊れる可能性があった。

 焼死体の取り扱いを巡る明確な方針がない中、当惑する歯科医たちの間に「焼死体には触れないように」との空気が広がった。背景にあったのは刑法190条の「死体損壊罪」。死体や遺骨を損壊した場合、3年以下の懲役が科せられる。

 「何もできなかった」。熊谷さんはこの日だけで50人近くの「デンタルチャート」(死後記録)を採録したが、焼死体はやむなく見送った。

 警察庁などがまとめた被災3県のデータによると、55人の遺体の身元が判明していない。内訳は岩手48人、宮城7人、福島ゼロ。岩手は31人が焼死体で、このうち19人はチャートがない。

 震災からちょうど1年後。大槌町で見つかった「推定年齢0~20歳」(県警発表)とされた小さな焼死体が行方不明の幼い孫ではないかと思い、警察に足を運ぶ家族の姿をテレビの報道番組で見た。

 熊谷さんは他の歯科医と共に県警が保管していた遺体の写真を確認。歯の状態から「高齢者」と推定し、県警に内々に伝えた。再調査の結果、高齢の該当者が見つかった。

 「安置所でエックス線写真だけでも撮っていれば、もっと早く家族の元に返せた可能性は極めて高い」。遺体に直接触れなくても、歯科医として最善を尽くす大切さを痛感した。

 震災の教訓を踏まえ12年6月に二つの法律が成立した。「警察などが取り扱う死体の死因・身元調査に関する法(調査法)」と「死因究明推進法(推進法)」。死因究明について国や警察の責務を初めて明文化した。

 調査法により、安置所を取り仕切る警察の権限が拡大した。2年の時限立法だった推進法は既に失効したが、内容を引き継いだ「死因究明推進基本法」が今年4月に施行された。「歯科医が死因究明の専門家として初めて法に明記された。堂々と身元特定に携われる」。熊谷さんは法整備の意義を強調する。

 一方、あの日、歯科医たちの作業を阻んだ「死体損壊罪」の問題点は未解決のままだ。歯は体の中で最も硬く、焼損しにくい。歯科所見は焼死体にこそ有効なはずだ。にもかかわらず、日本では重要視されていない…。

 「同じ後悔を二度と繰り返したくない」。世界標準を学ぶため、熊谷さんは15年にベルギーの大学に留学した。
(北村早智里)