「テロの犠牲者の個人識別を大学病院の解剖室で行う。準備しておいて」

 2016年3月、ベルギーに留学していた岩手医大准教授の熊谷章子さん(50)=盛岡市=は、ルーベン・カトリック大のパトリック・テビッセン教授から呼び出された。

 首都のブリュッセル国際空港と地下鉄マールベーク駅で連続爆破テロが起きた。法歯学が専門のテビッセン教授のアシスタントとして、テロリストや空港で犠牲になった被害者計17人の歯科所見を手伝った。

 多くがパスポートを所持しており、すぐに身元が確認できると思った。

 それでも全員の遺体から身元確認に必要な「歯科所見」「指紋」「DNA型」といったデータを採録し、識別した。世界標準とされる国際刑事警察機構(ICPO)の規格に沿ったやり方だ。

 熊谷さんは15年9月、ベルギーに留学した。国が組織した身元確認専門家チームに所属するテビッセン教授から世界標準の技術や仕組みを学ぶためだ。

 東日本大震災の発生後、警察協力歯科医として犠牲者の身元確認に携わった。顔や所持品を根拠に遺族に遺体を引き渡し、後に取り違えが判明したケースがあり、「海外で同じような災害が起きたら身元をどう特定するのか」とずっと気になっていた。

 強い関心を持って臨んだ1年間の留学で「日本は国際水準から全く懸け離れている」と気付く。決定的に不足しているのは「平時の教育」「現場の連携」との結論に行き着いた。

 16年9月に帰国後、海外の専門家による講演会を主催した。昨年9月は韓国の法歯学者を盛岡市に招いた。岩手県警、医療関係者が参加し、14年に韓国で起きた旅客船セウォル号沈没事故時の対応を学んだ。

 「世界標準を知っておけば他国と一緒に活動できる」。想定するのは南海トラフ巨大地震だ。最大32万人超の犠牲が予測され、多数の外国人が含まれる可能性がある。「対応を間違えれば国際問題に発展しかねない」と強調する。

 災害大国の日本で身元確認の仕組み作りが進まなかったのはなぜか。一つの理由が思い浮かぶ。

 「『縁起でもない』と犠牲者を想定した訓練が行われなかった。備え自体がタブー視されてきた」

 ベルギーや韓国には国の身元確認チームがあり、平時から世界標準に基づいた対応方法を周知している。「1体の記録をみんなで完成させる」という共通認識を持ち、災害時は全員で確実に採録している。

 連携不足という震災の教訓を踏まえ、岩手県は遺体搬送から安置までを想定した「遺体対応訓練」を13年に始めた。身元確認に携わる医師や歯科医、警察官らが参加する訓練は他にも増え、専門家同士が顔の見える関係を築きつつある。

 「質は確実に上がっている。岩手のレベルを全国にアピールできるくらいにしたい」

 熊谷さんは手応えを感じている。(北村早智里)