「腫瘍マーカー、血液検査とも正常値ですね」。9月下旬、仙台市内の病院で医師の説明を聞いた佐藤美広(みつひろ)さん(59)=石巻市=が胸をなで下ろした。

 直腸がんの手術から6年。半年ごとに再発の兆候を調べている。今回もクリアした。体調への不安は薄らぎつつある。

 石巻市大川小3年だった一人息子の健太君=当時(9)=を東日本大震災の津波で亡くした。それまで大病をしたことも、健康診断で引っ掛かったこともなかった。「ストレスしか原因は見当たらない」と思う。

 「英語と野球の両方頑張れるか? 嫌になってすぐやめたら駄目だぞ」

 2011年3月11日の朝。出勤前に自宅で健太君に声を掛けた。健太君の夢は船長。必要な英語の勉強にやる気を見せ、通信教育の教材が前の日に届いたばかりだった。

 「頑張る」。元気な答えが返ってきた。親子の最後の会話になった。

 午後2時46分。激しい揺れに見舞われた。市内の造船工場で溶接工として働く佐藤さんは津波が来ると思い、車で避難した。途中、妻とも子さんからメールが届いた。

 「健太が心配。学校と連絡が取れない」

 時計を見て安心した。まだ学校にいる。迎えに行こうと車を走らせたが、学校近くの新北上大橋の橋桁の一部が流失し、足止めされた。

 震災3日目に自転車と徒歩で学校に着いた。辺り一面、がれきに覆われている。目の前の光景に言葉を失った。捜し続けた健太君の亡きがらは約1カ月後、学校近くの田んぼで見つかった。

 大川小は津波で児童70人と教職員10人が死亡し、児童4人が今も行方不明だ。犠牲者は全校児童の7割に上る。仙台高裁判決によると、児童らは津波襲来直前まで校庭にいて、北上川右岸の堤防道路に向けて避難を開始した直後に濁流に襲われた。

 11年4月9日、石巻市教委が初の遺族説明会を開いた。「ようやくできた一人息子があんたたちのせいで!」。席上、佐藤さんは何度も怒りを爆発させた。

 学校にいた教職員で唯一生き残った男性教務主任(59)による直接の説明は一度きり。後に遺族の求めで説明会は継続されるが、市教委は6月4日の第2回で一方的に打ち切りを告げた。

 なぜ、すぐに避難しなかったんだ。なぜ、裏山じゃなく川に向かったのか。疑問は晴れず、不信感だけが膨らんだ。

 市が設けた第三者事故検証委員会の調査も核心に触れず、14年2月の最終報告書には「調査に限界があった」と記された。

 「真相を知り、責任の所在を明らかにしたい」。佐藤さんら19遺族は14年3月10日、石巻市と宮城県に約23億円の損害賠償を求める裁判を起こした。時効成立の前日だった。

 がんが見つかったのは提訴から2カ月後。ステージ4だった。