2005年の東北楽天創設時から主に1軍用具担当として支えた霜田智さんが10月4日夜、帰宅後に倒れ59歳で亡くなった。11日に百か日を迎える。前職のスポーツ用具会社員時代からプロ球団に携わって約40年、職人気質の人だった。

<「プロ中のプロ」>
 「駄目駄目駄目、部外者は絶対に通っちゃ駄目」

 07年、グッドウィルドーム(現メットライフドーム)の東北楽天ベンチ、引っ越し作業用のゴム製軍手がトレードマークの愛称「シモさん」は筆者に近づき番犬のように声を荒らげた。ベンチから記者室に戻るには直結の用具置き場を通るのが最短の抜け道。横着して強行突破を図るやからは頻繁に足止めされた。

 「シモさんの怒った顔は見たことがない」。かつてのチームスタッフの人物評は全く異なった。「選手が格好良くグラウンドに立つために労を惜しまないプロ中のプロ」とも。

 特別に思っていたのがユニホームの扱い。シモさんは試合着を忘れた選手を叱らず、いつもそっと上下一式を差し出した。

 「あるよ。でも高いよ」

 違う背番号のユニホームを借りて出場する恥ずかしい思いをさせたくない。そんな親心から常に全員分のスペアを用意していた。06年入団の青山は「助けられた選手は多い」と懐かしむ。

 遠征先でも地元のクリーニング業者にやり直しを求めたこともある。

 「見て見て。しわが残っている。プロ野球選手が着るんだからしっかり頼む」

<後輩の背中押す>
 ゼロから始まった球団1年目。「キャンプをするにしても、右も左も分からないスタッフばかり。あの時シモさんがいなければどうなっていたことか」と当時の裏方の一人は振り返る。

 シモさんは温かく後輩に接し、背中を押した。06年からチーム広報を務めた内藤俊さんは当時、不慣れな仕事ぶりに周囲から注意を受けることが多かった。ビジターでの試合後、宿舎の自室にこもっていると、シモさんからよく電話が来て、宿舎のチーム用食堂に連れ出された。

 「メシに行くぞ。食べないと明日元気出ないぞ。裏方が頑張れなければ、選手だって頑張れないんだ」

 用具担当に後輩が入ってきた時は「まずは自分で失敗してみろ。それで聞きたいことがあれば教えるから」と諭した。

 13年11月3日のKスタ宮城(現楽天生命パーク宮城)。日本一が決まった歓喜の瞬間、選手たちに続き、シモさんも裏方の後輩とともにグラウンドへ飛び出した。「裏方は黒子」という信念をこの日ばかりは曲げた。「日本一のためにみんなが頑張った。裏方も胴上げに参加させてほしい」と代表して願い出ていた。

 16年から仕事場は2軍になったが、「いつかまた1軍に戻って勝負したい」と思い描いていた。最期を迎えた日も、ともに1軍を目指す若手の練習に夕方まで付き合っていた。(金野正之)