東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城が、発生直後から再生に向けて歩みだせた陰には、奥羽山脈の西に広がる山形からの迅速かつ幅広い支援があった。窮地にある宮城を救うため、復旧復興を下支えするため、「隣人」たちは何を考え、どう行動したのか。被災と支援を巡る教訓を仙山圏に探る。(山形総局・須藤宣毅)

◎再生への仙山連携(1)交通・輸送

 震災翌日の2011年3月12日、山形空港(東根市)は津波で浸水した仙台空港に代わる救援機の拠点、そして空の玄関口として動きだす。ビジネス客や旅行客が中心の平時の表情とは一変した。

<24時間化で対応>
 午前7時、国土交通省から「救援拠点として24時間化できないか」と山形県に電話が入った。県は航空会社に必要な人員や機材の確保を要請し、自治体を通じて住民に騒音への理解を呼び掛けた。夕方までに体制が整い、午前8時~午後7時半で運用していた山形空港は初めて24時間化された。
 運航情報官が詰める管制塔はこの日、通信回線のトラブルに見舞われ、各地の空港と航空機の飛行計画データのやりとりができなかった。復旧までパイロットとの無線交信で便名や着陸時刻を紙に書き取り、急場をしのいだ。
 駐機場には、北は札幌市、南は鹿児島市まで全国から防災ヘリが集まった。各機は被災者の救助に出発すると2、3時間後に戻って燃料を補給し、再び飛び立つ任務を1日数回繰り返した。ラッシュ時には3、4機のヘリが列を作って関山峠を越えた。
 当時を知る中村浩明運航情報官は、各機には風速や空港の状況を伝えながら「『頑張ってください』『お疲れさま』と激励の言葉も交わし合った」と振り返る。

<ツアーバス手配>
 空港ビルには夜明け前から東京、大阪便に乗ろうという人たちが詰めかけた。日中も仙台ナンバーのタクシーなどが続々到着。普段着のまま駆け付けた人が目立ち、多くが不安げな表情を浮かべていた。
 定期便は日本航空の8便のみ。臨時便も予約で埋まり、午後6時台の最終便出発後、数百人のキャンセル待ちの客が空港に残った。
 空港ビルは200枚の毛布のほか、カーペット敷きの宿泊スペースを提供した。それでも、翌朝一番に整理券をもらおうと、カウンター前に段ボールを敷いて寝る人もいた。
 空港業務を担当する山新観光(山形市)で当時、航空部長だった菅野孝良さん(61)は「このままでは日を追うごとにキャンセル待ちが増えかねない」と考え、急きょツアーバス8台を手配。搭乗できなかった人たちを乗せて3月16日まで毎日、日本海側から陸路で東京や大阪に運んだ。
 日本航空は連日、増便や航空機の大型化で対応したほか、全日空が9年ぶりに就航し、4月3日には最大34便を運航。同6日の搭乗者は全航空会社で計約3500人に達した。
 空港ビルが何日も利用客であふれるのも未曽有の事態だった。山形空港ビルの仲野昭彦総務部長は「利用客の健康と安全を考え、ビルの耐荷重や二酸化炭素濃度を検査した」と思い返す。

<「真っ先に必要」>
 ロビーがにわかに沸き立った瞬間もあった。選抜高校野球大会出場のため、東北高ナインを乗せた大阪行きが3月19日、居合わせた人たちに見送られて飛び立った。鳴りやまない拍手と声援。誰もがつかの間、彼らに希望を託した。
 県空港港湾課長だった熊坂俊秀さん(62)は「空港は被災地支援に真っ先に必要とされた。事業者や住民の協力で体制が整ったときは、本当にほっとした」と話す。(次回からワイド東北面に掲載)

[メモ]山形空港の3月12日~4月末の旅客機の搭乗者数は11万6485人。1日当たりの搭乗者は2300人を超え、220人余りで推移していた震災前の10倍に達した。災害救援機は自衛隊機や米軍機も同空港を利用。3月12日~5月31日の離着陸回数は防災ヘリの522回をはじめ、計1219回に上った。