東日本大震災の発生直後、医療機関の対応は迅速を極めた。第1陣の山形県立中央病院(山形市)の災害派遣医療チーム(DMAT)が仙台医療センターに向かったのは、2011年3月11日午後4時40分。山形県が宮城県から要請を受けて66分後のことだ。

◎再生への仙山連携(2)医療

<異なったニーズ>
 10分後に日本海総合病院(酒田市)、午後5時28分に山形済生病院(山形市)、午後5時半には公立置賜総合病院(山形県川西町)が次々とDMATを派遣。しかし、被災地の医療ニーズは当初の想定と大きく異なっていた。
 山形DMATの指揮を執った県立中央病院の森野一真副院長が振り返る。
 「津波から逃げられたか否かで生死が分かれ、外傷患者が少なかった。山形県に求められたのは慢性疾患の患者への対応だった」
 13日からは、石巻市や宮城県南三陸町を中心に津波で通院先と生活の場を失った患者や高齢者の受け入れ要請が相次ぐ。森野副院長らは山形県内の病院に病床の捻出を求める一方、搬送手段の検討を急いだ。

<透析減呼び掛け>
 「山形で人工透析をできませんか」。山形県地域医療対策課には気仙沼市近郊の被災者から電話があった。
 患者は週数回の人工透析が欠かせないが、電気と大量の水が必要なだけに被災地の医療機関はどこもままならない状態だった。
 県内35医療機関で組織する山形腎不全研究会事務局の矢吹病院(山形市)は13日、会員に被災患者の受け入れを要請。地理的に近い村山地域を中心に、各医療機関は透析の頻度を可能な範囲で減らすよう地元の患者に協力を呼び掛け、受け入れ枠を作った。
 収容可能な施設と被災患者のマッチングは、両県のコーディネーターが担った。医療機関同士のやりとりも行われたが、情報が入り乱れるケースもあったという。
 矢吹病院の伊東稔副院長は「広域災害では県単位の情報交換が重要。平時から医療、自治体関係者のネットワークを整備すべきだ」と話す。

<難手術 チームで>
 山形大病院は震災から3日後の3月14日、東北大病院(仙台市)から循環器系の重症患者の手術依頼を受けた。地震被害で手術室が使えないという。患者と担当医は翌日、ヘリコプターで山形市に到着。救急車で山形大病院の集中治療室に運ばれ、両大合同チームが17日、難手術に当たった。
 他にも、震災で手術が完遂できなかった重症の乳児や網膜剥離の患者らが運び込まれ、治療や緊急手術を施した。滅菌装置が壊れた東北大病院に代わり、使用済み手術器材の滅菌処理も行い、処理済みの器材を次々に返送した。
 医師派遣や患者の受け入れなど、内陸部で被災地医療の砦(とりで)となった東北大病院を、山形大病院がさらに後ろで支えた形だ。
 山形大病院の地震被害は軽微だったが、当初は生活物資やガソリンが不足。職員に備蓄食料を分配し、通勤に支障が出ないよう、近くに臨時の宿を確保するなどの措置を取った。
 山下英俊医学部長は「地域医療はもちろん、後方支援でも大学病院は最後の砦。多様なニーズに応えるには医薬品などの確保に加え、職員を守ることが大事になる」と説明する。
[メモ]震災直後、山形大病院、新庄病院など6病院がDMAT8チーム延べ43人を宮城県に派遣した。山形県内の病院が宮城県から受け入れた入院患者は2011年3月21日~5月12日に240人。人工透析患者は3月14~20日に入院と外来を合わせて134人だった。山形大病院は3月12日~4月11日、東北大病院などから高度医療が必要な入院患者ら16人を受け入れ、6件の手術を行った。
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 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城が、発生直後から再生に向けて歩みだせた陰には、奥羽山脈の西に広がる山形からの迅速かつ幅広い支援があった。窮地にある宮城を救うため、復旧復興を下支えするため、「隣人」たちは何を考え、どう行動したのか。被災と支援を巡る教訓を仙山圏に探る。(山形総局・須藤宣毅)