東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城が、発生直後から再生に向けて歩みだせた陰には、奥羽山脈の西に広がる山形からの迅速かつ幅広い支援があった。窮地にある宮城を救うため、復旧復興を下支えするため、「隣人」たちは何を考え、どう行動したのか。被災と支援を巡る教訓を仙山圏に探る。(山形総局・須藤宣毅)

◎再生への仙山連携(5)廃棄物

 1日20台。大型ダンプは約2カ月間、ひっきりなしに宮城県沿岸部を出発し、福島市経由で米沢市へと向かった。

<ゼオライト散布>
 支援物資の輸送や復旧工事の車列が「復興の動脈」だとすれば、こちらは「静脈」。荷台は腐った水産加工品でいっぱいだった。
 2011年4月、宮城県は山形県に水産加工品2万5000トンの処理を要請した。被災地の冷凍・冷蔵庫にあった水産加工品は、東日本大震災に伴う停電で日ごとに腐敗が進んだ。衛生上の問題から、早期撤去が喫緊の課題になっていた。
 山形県は処分場を運営する7業者に搬入を依頼。最も多い8637トンを引き受けたのが、米沢市板谷の最終処分場「ジークライト」だ。
 同社にとって水産加工品の処分は初めて。作業効率を上げるため、積載用重機を提供したほか、被災した現地に廃棄物の集積を頼んだ。4月下旬に気仙沼、石巻両市の企業から受け入れを始めたが、既に一部は液状化。石灰で固めるなど積載や搬送に細心の注意を払った。
 最大の悩みは、やはり悪臭。板谷地区の住民に配慮し、集落入り口に車両用のシャワーを作って大型ダンプに消臭剤をかけた。埋め立ての際も、消臭効果のあるゼオライト粉末を大量に散布した。
 6月中旬に搬入を終えた後は、汚水処理に追われた。吉田徹常務は「緊急で大量の処理が必要な時は最終処分場の出番。思った以上に苦労や出費はあったが、復興を妨げる廃棄物の処理を急ぎたかった」と語る。

<し尿処理素早く>
 膨大な災害廃棄物が発生した宮城県では、施設が震災の被害を受け、処理は停滞していた。そんな窮状を救ったのが、山形県内の業者たちだった。
 最も動きが早かったのは、し尿処理。多賀城市では地元業者のバキュームカーが津波で被災し、避難所に置いた仮設トイレのし尿処理に困っていた。災害時応援協定を結ぶ長井市は3月15日、市内の業者と車両1台を現地に派遣。17日まで10カ所の仮設トイレを巡回してし尿をくみ取った。
 ほかにも業界団体の山形県環境整備事業協同組合の音頭で同日から事業者が被災地に入り、東根市の処理施設などに運搬した。

<手続きを簡略化>
 医療廃棄物の処理も待ったなしだった。他県からの廃棄物の搬入は本来、排出事業者と山形県の事前協議が必要だが、「受け入れを加速するため、手続きを簡略化した」と当時の県担当者は振り返る。
 医療廃棄物は専門の免許が必要で、焼却が義務付けられている。処理を一手に引き受けたのはキヨスミ産研(山形市)。震災発生1週間後から、宮城県内の医療機関など660施設から切れ目なく依頼が入った。
 れんが製の焼却炉は停電で止まると急速に冷え、壊れる恐れがあった。同社は余震のたびに肝を冷やした。処理容量を超えそうな時は、焼却予定の他の廃棄物を自社の最終処分場に回し、依頼を優先した。
 その中の350施設とは現在も取引が続く。皆川秀司施設運営管理本部長は「大規模災害が起きると被災地だけで対応するのは難しい。リスク分散の選択肢の中に当社を加えてもらったことを誇りに思う」と話す。

[メモ]山形県から宮城県に派遣されたバキュームカーは2011年3月15日~12年3月30日に延べ1122台。処理したし尿は9300キロリットル。山形県が宮城県から受け入れた医療廃棄物を含む産業廃棄物は11年3月中旬~11年6月末に2万2480トン。がれきを中心とした災害廃棄物は11年7月~14年3月に12万8837トンに達した。