<古くから名将に名参謀ありと言われる。9連覇を達成した巨人の川上哲治監督なら牧野茂氏。中日、阪神監督時代の星野仙一さんを支え続けたのは島野育夫氏だった。栃木・作新学院高、社会人野球を経て1963年に中日に入団。星野さんの入団前年に南海へ移籍し、南海、阪神で外野手として活躍した>

◎監督になったら

 島野という名前は知っていましたが、当初は接点がなかった。私はプロ2年目に肘を壊した。2軍で調整した後、大阪遠征の夜、中日の先輩で島野さんと親しくしていた人がいて、一緒に食事をしました。そこで島野が野球をものすごく熱く語るわけです。「うわー、すごいな。野球詳しいな」と。僕もまだ23、24歳。生意気だったんだね。将来、監督になったらこの男を絶対に呼ぼうと思った。それからずっとお付き合いをしていました。
 彼が素晴らしいのは、野球をものすごく知っていること。投手を見て「次はフォークボール」「スライダー」「真っすぐ」と僕の後ろで言う。みんな当たる。「どこを見てる?」「ボールを持ってグラブに入っている白いところが少し多く見えたら変化球」「手首の筋がちょっと動くでしょ。フォークを投げるとき指を広げるから筋が動く」と。見ても分かりませんよ。
 ゆっくりセットポジションに入ったときは真っすぐとか、さっと入ったときは変化球とか、胸の方にグラブが傾いたらどうだとか、癖を盗む。そういうところから、僕に野球を教えてくれました。

 <島野氏は「鬼軍曹」と呼ばれる一方、面倒見の良い人柄で、監督と選手の緩衝材ともなった>
 
◎厳しくも好かれ

 若いやつにはすごく厳しい。でも、ユニホームのときとプライベートのときですごく変わるんです。だからヘッドコーチをやってもらったときも、裏方さんや選手から、僕が焼き餅を焼くほど好かれていましたね。厳しいけれど、愛情があるというか。

 <島野氏は2007年12月、胃がんのため63歳で亡くなった>

 不思議なんですよね。僕が東京で仕事をして、伊丹に帰りました。見舞いに行ったら、点滴しながら僕の顔を見て「監督をやりたかった」って言うんですよ。ずっとヘッドコーチやってたんですよ。「えっ」と思いました。あれだけ僕に仕えてくれて「監督を一度やりたかった」って言うんです。「絶対やらしてやるから、もう一回元気になって戻って来い」「元気になったら、俺が絶対タイガースの監督をさせてやる。だから元気出せ」って言ったら、その晩に亡くなりました。
 東北楽天のときも呼びたかったんですが、もう呼べなかった。