◎第6部 仙台藩降伏/勤皇派復権

 1868(明治元)年旧暦9月15日、新政府軍に南の藩境を突破された仙台藩はついに降伏を決めた。重臣の伊達将監を使節とし、熊本藩を通じて謝罪嘆願書を提出。仙台城下が戦場と化すことはなかった。
 首席奉行の但木土佐、坂英力らは罷免され、東京に護送、幽閉された。代わって執政に就いたのは、遠藤文七郎ら勤皇派。新政府に従い会津藩を討つように主張して土佐と対立し、政争に敗れて失脚していた。
 戦争に負けた以上、体制を一新するというのが藩の判断だった。復権した勤皇派は藩内の戦争責任者を次々と拘束し、新政府に断罪を求めた。累は下級藩士にも及んだ。勤皇派の報復と捉える向きもあり、藩は内紛状態を呈した。「仙台騒擾(そうじょう)」と呼ばれる。
 土佐は翌年5月、反逆首謀の罪で坂とともに東京・麻布の仙台藩邸で斬首された。護送前、旧幕臣の榎本武揚との箱館行きを勧める者もいたが「自分が逃れたら君公はどうなる」と拒んだという。
 辞世の句は「七峰樵夫」の号で詠んだ。領主だった吉岡(現在の宮城県大和町)にある七ツ森のきこりという意味。号は89(明治22)年の大赦まで、本名の代わりに土佐の墓に刻まれていた。墓は1997年、七ツ森の膝元にある大和町吉田の保福寺に移された。
 元検事総長の但木敬一さん(75)=東京都=は但木家の子孫。検事総長の官舎は麻布の仙台藩邸跡の隣地にあり「不思議な縁を感じた」と言う。昨年6月、保福寺であった150回忌に出席した但木さんは「土佐は信念に従い、歴史の渦中に身を投じた。思い残すことはなかったと確信している」と述べた。
 会津藩との和平交渉に奔走した玉虫左太夫も捕まり、仙台で切腹となった。榎本艦隊と合流しようと気仙沼に潜んでいたが、艦隊が寄港したのは捕縛の翌日。わずか1日が命運を分けた。幕末に玉虫と共に渡米した福沢諭吉は「福翁自伝」の中で「無情残酷にひどく腹が立ちました」と、その死を惜しんでいる。


 [遠藤文七郎] 1836年、奉行職の家系に生まれる。川口(現在の栗原市一迫)領主。仙台藩校養賢堂で学ぶ。戊辰戦争中は藩中枢から退かされて地元で閉門となっていた。明治維新後は仙台藩大参事。晩年は塩釜神社宮司となった。99年死去。

 [七ツ森] 宮城県大和町の宮床地区から吉田地区にかけて連なる七つの独立峰の総称。主峰笹倉山(別名大森山、506メートル)のほか、松倉山、撫倉山、大倉山、蜂倉山、鎌倉山、遂倉山がある。伝説の大男、朝比奈三郎が作ったとの昔話が地元に伝わる。

  文 ・酒井原雄平
  写真・岩野 一英