青森県出身者として初めて五輪に出場した井沼清七(せいしち)(1907~73年)が、アムステルダム五輪(28年)400メートルリレー予選の前夜にしたためた手紙の写しが、故郷である中泊町博物館に寄せられた。大舞台を控えた高揚感が記されている。東北が生んだスプリンターの実像を伝える貴重な資料と言えそうだ。

 井沼は弘前中(現弘前高)で陸上競技を始め、早稲田大に進学。同五輪で日本人初の金メダリストとなる三段跳びの織田幹雄(05~98年)らと切磋琢磨(せっさたくま)し、素質を開花させた。

 手紙は中里尋常小時代の恩師・大井一則氏宛て。予選前日の28年8月3日夜に書かれ、絵はがきなどを同封し、オランダ・アムステルダムで投函された。

 井沼を紹介した町広報紙を読んだ町内に住む大井氏の親戚が4月末、写しを届けた。町博物館によると、井沼の現役時代の人柄やエピソードを伝える資料は残っておらず、青森市在住の大井氏の息子宅に残る手紙の存在も知られていなかった。

 手紙には何度も加筆や修正がなされており、斎藤淳館長は「21歳という多感な時期に見た世界は今よりもずっと遠く、広く感じたはずだ。筆が走るままにつづった、抑えきれない興奮が表れている」と指摘する。

 井沼は予選に第一走者として臨むも4着となり、決勝に進めなかった。ロサンゼルス五輪(32年)を目指したが、けがでかなわなかった。引退後は、都内の百貨店の常務を務めるなど実業界でも活躍した。

 手紙の写しは、博物館で6月21日まで開催中の「東京オリンピック開催記念-スポーツ大国の群像#中泊-」で展示されている。