太宰治は1944年初夏、津軽を旅し、その足跡を自伝的小説「津軽」に刻んだ。39年の生涯で唯一となった古里を巡る旅を通じ、彼は何を感じ、何を残していったのか。75年余の歳月を経た新緑の津軽を訪ね歩いた。
(青森総局・荘司結有)

 故郷の金木町(現五所川原市金木町)を出た太宰は、五能線で木造町(現つがる市木造)に向かう。木造は父・津島源右衛門が生まれ育った土地だ。

 源右衛門は薬種問屋を営む松木家の三男に生まれ、津島家へ婿入りした。銀行経営にも乗り出し、津島家を大きく発展させた。

 この父は、私の十四の時に死んだのであるから、私はこの父の「人間」に就(つ)いては、ほとんど知らないと言わざるを得ない

 源右衛門は県会議員や衆院議員も務め、多忙を極めた。「愛情に飢えていたのだろう。木造で父の面影を探してみたくなったのではないか」。つがる市観光物産協会の川嶋大史会長(60)は推測する。

 木造は、また、コモヒの町である

 「コモヒ」とは、豪雪に備えて木で組んだアーケードのこと。一般的には「こみせ」と呼ぶ。

 商店街が衰退し、姿を消しつつあるが、当時は1キロ近く続いていた。コモヒを歩き、太宰は父の生家を目指す。

 「M薬品問屋」に着き、当主のMさんの案内で座敷へ上がる。酒をごちそうになりながら、あることに気づく。

 源右衛門が建てた太宰の実家「斜陽館」と、松木家の間取りがそっくりだったのだ。津島家に負けない名家だった松木家の出である誇りを示したかったのか。

 私には養子の父の心理が何かわかるような気がして、微笑(ほほえ)ましかった(中略)死んだ父の「人間」に触れたような気がして、このMさんのお家へ立ち寄った甲斐(かい)があったと思った

 亡き父の面影を感じ取り、太宰は木造を離れた。