太宰治は1944年初夏、津軽を旅し、その足跡を自伝的小説「津軽」に刻んだ。39年の生涯で唯一となった古里を巡る旅を通じ、彼は何を感じ、何を残していったのか。75年余の歳月を経た新緑の津軽を訪ね歩いた。
(青森総局・荘司結有)

 本編の旅では訪れていないものの、太宰は旧制弘前高時代を過ごした弘前市の風景を序編にしたためた。

 汝(なんじ)を愛し、汝を憎む

 思い入れが深かったのだろう。明治維新後、県庁を青森市に奪われ確固たる地位を失った城下町への悪口を無遠慮に並べながらも、「決定的な美点」があると信じて疑わなかった。

 ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かある筈(はず)である

 ある春の夕、弘前城天守の広場から眺めた情景にその「何か」を感じ取った。

 見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ
 万葉集などによく出て来る「隠沼(こもりぬ)」というような感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした

 茂みに覆われて、よく見えない沼を「隠沼」と言う。太宰は得も言われぬ情景を、その一言に託した。

 弘前ペンクラブの斎藤三千政会長(73)は「言葉にするのが難しく、津軽人以外には分かりにくい弘前独特の奥深さがこの言葉に詰まっている」と話す。

 弘前高に入学した夏、敬愛する芥川龍之介が自殺。大きな衝撃を受けた太宰はしばらく引きこもった後、義太夫や芸者遊びに興じ、薬物自殺を図る。

 一方で、2年次に同人誌「細胞文芸」を創刊。自伝的小説「無間奈落」など10以上の作品を手がける。

 奔放な生活と旺盛な文学活動、そして自殺の試み。城下町での生活は、その後の波乱の人生を予感させる3年間でもあった。