役員・従業員45人の小さな会社ながら、航空機部品の研磨を主力事業に成長させた宮城県石巻市のエヌエス機器。バブル崩壊、東日本大震災、新型コロナウイルス禍と難局が続く中、技術を文字通り磨いてきた町工場の航跡をたどる。
(報道部・高橋一樹)

 「今後は海外に生産を移すことになりました」

 1995年ごろ、自動車部品「ワイヤハーネス」製造を手掛ける宮城県内の企業の会議室。工場長の表明は突然だった。集まった下請け十数社の経営者の間に困惑が広がる。

 「これまで『増やせ増やせ』で増やしてきたのに、今になってそんな話はないですよ。私たちはこれからどうすればいいんですか」

 ハーネスが売り上げの多くを占めたNS化学工業(現エヌエス機器、石巻市)の阿部秀敏社長(61)は食い下がる。工場長は「非量産品を納入してほしい」と淡々と告げた。取るに足らない仕事量であることは明らかだった。

 90年代に入り、国内ではバブル景気が崩壊。打撃を受けた製造業は、効率化のため生産拠点の海外移転を進めた。くだんの企業も既に東南アジアでの工場増設が決まっていた。下請けが口を挟む余地があるはずもなかった。

 「時代の流れで、今は全く恨んでいない」(阿部社長)。しかし、当時のショックは大きかった。売り上げは一気に半減し、会社は窮地に立たされた。

 その後は模索が続く。

 96年に始めた携帯電話アンテナの組み立て作業は、まとまった受注が見込める事業だった。ピーク時は社員を80人まで増やし、年100万本ほどを手掛けた。だが、携帯電話は自動車以上に変化が激しかった。次第にアンテナそのものが姿を消していく。

 苦い記憶がある。ある下請け企業が倒産し、資材回収に向かう元請け企業の社長を、阿部社長がトラックに乗せた時のことだ。

 「つぶれるような会社とは取引できない。できないなら他を探すだけ」

 下請けを使い捨てるような社長の言葉は、とても人ごとに思えなかった。いつか自分たちも-。

 元請けの社長からは何度も飲みに誘われた。酒席でコストダウンを説かれながら、2軒目お決まりのフィリピンパブまで、代金は阿部社長持ちだった。「下請けの立場でものを言う力は当時はなかった」。中元や歳暮を贈らないことだけが、ささやかな反抗だった。

 苦しい時期が続く。2003年度は初めて2000万円の債務超過となる。

 同じ頃、阿部社長は地元青年会議所主催の勉強会をきっかけに、金属加工を手掛けるエーケーダイカスト工業所(東京)の甲斐宏社長(73)と知り合った。ダイカストメーカーの草分け的存在だ。

 現在にもつながる加工や外観検査の受注に混じり、フィルムカメラに替わって急速に台頭していたデジタルカメラの部品研磨の仕事を頼まれた。

 エヌエス機器が「磨き」に出合った。